ホーム:投稿論文:未採用分:「持統紀」と「文武紀」の「新羅王」死去記事:

(一)


『持統紀』と『文武紀』の「新羅王」死去を伝える使者記事について(一)

札幌市 阿部周一

「趣旨」
 以下は『文武紀』と『持統紀』の「新羅王」死去記事に注目し、その内容が『三国史記』や『旧唐書』などと相違する点について考察し、それら「新羅王」記事に不審があることを述べるものです。

T.はじめに
 古田史学の会の会報(註1)やホームページ(註2)などで「大化改新論争」というものが行われていることを知りました。これは服部静尚氏により提唱されたもので、「改新の詔」が出された時期について「七世紀中頃」とする「服部説」とそれに反論する西村・正木両氏を中心とする方々との間に繰り広げられているものです。「多元史観論者」の間では「九州年号」の「大化」年間に出されたものとする説が多数であり、また「近畿王権一元論者」においても「改新の詔」についてはずっと後代のものとする議論が多数というのが現状です。服部氏は敢然とこれらに異を唱えているわけです。
 これについては正木氏の論(註3)に象徴的なように「五十年移動」して盗用しているとしてその「真」が「七世紀末」であり「偽」の方が「七世紀中頃」とする考え方があり、年次移動の方向としては「七世紀末」から「七世紀半ば」へと遡上する形で行われたものであって、それは「新日本王権」による過去に遡って大義名分を保有していたとする主張の表れというのが「多元史観論者」の共通項であるようです。当然服部氏の考え方はこれと正反対であるとならざるを得ません。この双方の論のいずれが正しいのか容易に決定できるものではありませんが、以下に述べるように、「新羅王」死去に関する『書紀』『続日本紀』の記事を解析すると、「七世紀半ば」付近の記事を「七世紀末」あるいは「八世紀初頭」へと移動している可能性があり、これは服部氏の考えを補強するものではないかと思料します。

U.「新羅王」の死去記事の存在
『持統紀』と『文武紀』に、それぞれ「新羅王」の死去を伝える使者の記事があります。
(一)「(持統)七年(六九三年)…二月庚申朔壬戌(三日)。新羅遣沙?金江南。韓奈麻金陽元等來赴王喪。」
「同年三月庚寅朔。…乙巳。賜擬遣新羅使直廣肆息長眞人老。勤大貳大伴宿禰子君等。及學問僧弁通。神叡等?綿布。各有差。又賜新羅王賻物。」
(二)「大寳三年(七〇三年)」「春正月癸亥朔…辛未。新羅國遣薩韓金福護。級韓金孝元等。來赴國王喪也。…」
「同年閏四月辛酉朔。大赦天下。饗新羅客于難波舘。詔曰。新羅國使薩?金福護表云。寡君不幸。自去秋疾。以今春薨。永辞聖朝。朕思。其蕃君雖居異域。至於覆育。允同愛子。雖壽命有終。人倫大期。而自聞此言。哀感已甚。可差使發遣弔賻。其福護等遥渉蒼波。能遂使旨。朕矜其辛勤。宜賜以布帛。」
 これらの記事については一般に(一)が「神文王」、(二)が「孝昭王」の死去を知らせる記事と理解されています。
 (一)では死去した年次は不明ですが、おそらくその前年の「六九二年」であろうと理解されており、この年次に死去した「新羅王」としては「神文王」しかおりませんし、(二)では「七〇二年」の死去と考えられますから、これもまた「孝昭王」以外いないと(「安易」といって悪ければ「素直」に)考えられてきていたようです。しかし、簡単にそう断定していいのかというといささかの不審があるように思えます。

V.『持統紀』の「新羅王」死去記事の不審について
 上の(一)の『持統紀』記事の場合、誰もこの「新羅王」を「神文王」として疑いませんが、彼は『三国史記』によれば「六九二年七月」に死去したと書かれています。
「(神文王)十二年(六九二年)…秋七月王薨諡曰~文。葬狼山東。」(『三国史記』)
 この死去時点から数ヶ月して「喪使」が倭国に訪れたというわけです。しかし、この『持統紀』の「喪使」の直前には「別」の「新羅」からの使者が「来倭」している記事があります。
「(持統)六年(六九二年)…十一月辛卯朔戊戌。新羅遣級?朴億徳。金深薩等進調。賜擬遣新羅使直廣肆息長眞人老。務大貳川内忌寸連等祿。各有差。」(『持統紀』)
 彼等は「十一月」に来倭したわけですが、これは「十一月中卯」に行われる予定の「新嘗祭」に「調」を捧げるためのものであり(ただし『書紀』にはこの年の「新嘗祭」の記述はありませんが)、この日めがけて行程を組んでいたと思われます。(到着はその五日前です)そうであれば、この時の出発が「七月」以前、つまり「神文王」の死去以前であったとは考えにくいものです。『魏志倭人伝』の行程記事を考えても「新羅」(この場合「都」である「慶州」からと想定します。)と「倭」の間の通交にはそれほど時間がかからないと思われるからです。
 『倭人伝』では「狗邪韓国」(これは釜山付近かと推定されます)から「対馬」「一大国」「末盧国」を経て「邪馬壱国」まで「水行十日陸行一月」とされています。「七世紀」段階の「都」がどこかで議論があるとは思われますが、たとえばそれが「明日香」であったとした場合、『魏志倭人伝』の「邪馬壱国」までの行程に瀬戸内を水行する行程及び「難波」から「明日香」までの陸行の日数を加えることとなりますが、「斉明」亡き後「天智」が「遺骸」を伴って「帰還」した行程を見ると「十七日間」しか要していません。
「冬十月癸亥朔己巳。天皇之喪歸就于海。於是皇太子泊於一所哀慕天皇。…。
乙酉。天皇之喪還泊于難波。」(『天智紀』)
 「癸亥朔己巳」つまり「七日」に出発し「乙酉」つまり「二十三日」に帰還していると見られ、これに「明日香」までの陸路の行程を「水行十日陸行一月」に加えても全体としてせいぜい二ヶ月程度しか日数として必要としなかった可能性が高いと思われます。これに休憩や食料補給などの日数をさらに一ヵ月程度加えても三ヶ月程度が最大ではなかったかと思われ、「十一月」に到着した「新羅使」の出発が「七月」より以前であったとは考えにくいこととなるでしょう。
 しかも、彼らは「新羅王」の死を伝えるために来た訳ではありません。記事では「進調」と書かれていますから、上に見たように「新嘗祭」に対する貢物の進上であり、あくまでも「通常」の儀礼的交渉を行なったと判断できます。
 当時は、「中国」でも他の国においても「国王」が死去した場合、「喪」に服す期間が設定され、その長さは少なくとも数ヶ月程度はあったと見るべきでしょうから、その間「諸儀礼」(特に外交に関すること)は停止されると考えられ、少なくともそのような時期に「倭国」に「進調」など「通常儀礼」のために使者が派遣されるというようなことがあったとは考えられないこととなります。
 例えば「新羅」の例では「七世紀前半」に死去した「真平王」の場合を見ると、正月に死去した後「唐」に「喪使」を派遣したらしいのを別とすると、「唐」へ「朝貢」としての使者を派遣したのが「十二月」と書かれています。
「(真平王)五十四年春正月 王薨諡曰眞平葬于漢只 唐太宗詔贈左光祿大夫賻物段二百…」(『三国史記』)
「(善徳王)善コ王立…元年二月 以大臣乙祭ハ持國政…十二月 遣使入唐朝貢」(同上)
 このように「新羅」においては「朝貢」などの通常の儀礼を停止している期間は数ヶ月以上一年未満程度と考えられ、相当程度長い「服喪期間」が設定されていると見られます。
 そう考えると『三国史記』に言うように『神文王』が「七月」に亡くなったとすると、この「十一月」の「調使」の存在は不審であり、それに引き続き(翌々月)「来倭」した「喪使」という組み合わせは互いに相容れないものとなるでしょう。
 
W.『文武紀』の「新羅王」死去記事の不審の場合
 また、(二)の『文武紀』記事の場合、「新羅使」が持参した「表」では「新羅王」について「去年」の秋から具合が悪かったが、「今年」の春になって死去した、という意味の事が記されていたとされます。これについて「日本古典文学大系『日本書紀』」(岩波書店)の「注」では『この表は、正月に来着した使者が持参したものであるから、「去秋」は七〇一年、「今春」は七〇二年をいうが、七〇二年七月に没したとする三国史記新羅本紀の記述と異なる』とされ、疑義を呈しています。
 つまり「孝昭王」の死去した年次及び季節として以下のように『三国史記』に書かれたものと、「新羅使」が持参した「表」に書かれた内容が異なっているというわけです。
「(孝昭王)十一年 秋七月 王薨 諡曰孝昭 葬于望コ寺東 舊唐書云 長安二年理洪卒 諸古記云 壬寅七月二十七日卒 而通鑑云 大足三年卒 則通鑑誤」(『三国史記』)
 このように『三国史記』では死去したのが「秋」(七月)とされており、「春」ではありません。これは「矛盾」であり、一種「謎」のわけですが、これはそのまま「謎」として未解明となっているようです。

 次稿ではこれら「新羅王」記事について、さらに考察します。


1.服部静尚「大化改新論争」(『古田史学会報』一二九号二〇一五年)
2.「古賀達也の洛中洛外日記」第一〇三三話 二〇一五年八月二十二日など
3.正木裕「「藤原宮」と大化の改新についてV なぜ「大化」は五〇年ずらされたのか」(『古田史学会報』八十九号 二〇〇八年)他