(未採用論文。ただし、一時差し戻して戴いた後再投稿した(投稿日付二〇一五年八月十六日)を改定したものです。(改定日付二〇一九年四月一日)
『倭人伝』の「塞曹掾史張政」の「来倭」に関する事
「要旨」
「帯方郡太守」の「王?」は「倭国」からの訴えを「皇帝」に報告し、裁可を仰いだと考えられ、「皇帝」から「黄幢」「檄」を授けられ、それを「張政」に託して「倭」へ派遣させたこと。
「張政」が来倭した時点で既に「卑弥呼」は死去していたと考えられること。
「張政」は来倭したその年(正始七年)のうちに「洛陽」の「皇帝」の元へ帰国したと考えられること。
「西晋成立後」の「泰始(泰初)二年」の貢献記事は上の「張政帰国」時点の貢献とは「別」と考えられる事。
(T)「張政」の帰国年次についての疑い
「倭国」は「狗奴国」との争いが本格化して、自分達の手に負えなくなってきたと思われる時点付近で「帯方郡」に窮状を訴える使者を派遣しています。これに対し「帯方郡」の太守は「塞曹掾史張政等」を派遣したとされています。(以下の記事)
「其(正始)八年(二四七年)太守王?到官。倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和、遣倭載斯、烏越等詣郡説相攻撃状。遣塞曹掾史張政等因齎詔書、黄幢、拜假難升米爲檄告喩之。
卑彌呼以死、大作冢、徑百餘歩、殉葬者奴婢百餘人。更立男王、國中不服、更相誅殺、當時殺千餘人。復立卑彌呼宗女壹與、年十三爲王、國中遂定。政等以檄告喩壹與、壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人送政等還。因詣臺、獻上男女生口三十人、貢白珠五千孔、青大句珠二枚、異文雜錦二十匹。」
この記事で「疑問」と思われるのが、「張政」が「檄」を告諭したとされる時点以降の記事の流れです。つまり「卑弥呼」の「死」はいつのことなのか、「張政」の帰国はいつのことなのかということです。
従来(古田氏を初めとして)多くの論者は、「卑弥呼」の死は「張政」が来倭して以降の事であり、また「張政」の帰国は(二十年経過した)「西晋朝」になってからであるとしているようです。(「白樺シンポジウム」における「木佐氏」の発言など(註一))しかし、そのような解釈には疑問があります。
私見によれば、この「其八年」以降の記事は「一連」のものと考えられ、「卑弥呼」の死も、「張政」の帰国も「其八年」の年次の出来事として書かれているのではないかと思料します。以下にそう考える理由を示します。
そもそも「年次」付き記事というのは、基本としてその「年次」の出来事がその後に書かれていると考えられ、その年次のことではない場合、「初め」であるとか「〜の時」あるいは「後」というように「年次」から「切り離す」文言が付加されるのが通例です。
例えば以下の例では、「初平十年春正月」という年次の記事の中で別の時点の事を述べるときには『初討譚時』、『後竟捕得』というような表現をしています。
「三國志/魏書 武帝紀 曹操」「初平十年春正月,攻譚、破之、斬譚、誅其妻子、冀州平。下令曰 其與袁氏同惡者、與之更始。令民不得復私讎、禁厚葬、皆一之于法。是月袁熙大將焦觸、張南等叛攻熙、尚熙、尚奔三郡烏丸。觸等舉其縣降、封為列侯。『初討譚時』、民亡椎冰、令不得降。頃之亡民有詣門首者、公謂曰 聽汝則違令、殺汝則誅首、歸深自藏、無為吏所獲。民垂泣而去 『後竟捕得』。」
ここでは「初平十年春正月」という年次の記事として確かに「攻譚、破之、斬譚」とありますが、『初討譚時』というのは「初平五年」のことですから、(以下の記事)この「初平十年」とは異なる年次のことです。それを明確にするためにここでは『初討譚時』という言い方をしているものです。
「初平五年八月,…紹初聞公之?瓊、謂長子譚曰 就彼攻瓊等吾攻拔其營、彼固無所歸矣。乃使張?、高覽攻曹洪。?等聞瓊破、遂來降。紹?大潰、紹及譚棄軍走渡河。追之不及盡收其輜重圖書珍寶、虜其?。公收紹書中得許下及軍中人書、皆焚之。冀州諸郡多舉城邑降者。」
この時点で始めて「公」即ち「曹操」と「袁紹」とその「長子」である「袁譚」を交えた戦いが行われています。先の記事の『初討譚時』というのはこの時点のことを言っているわけです。
しかし、この「倭人伝」の文章にはそのような「年次」と切り離す「文言」が確認されませんから、「太守王?」以降「異文雜錦二十匹」までの文章が全てその前の「其八年」という年次にかかっていると理解すべき事となると思われます。
さらに、この「文章」によれば「張政」は「詔書」を携えています。このことは彼の「来倭」は「皇帝」の知るところであったことを示すものと思われます。
文中では確かに「詣郡」とありますから、「邪馬壹国」は「帯方郡」へ窮状を訴える使者を送ったもののようですが、それに対し「太守」が独断で「張政」を派遣したとは考えられません。なぜなら「張政」は「詔書」「黄幢」を持ってきていますが、「太守」にはそのような「詔書」「黄幢」などを授与する「権能」はなかったと思われるからです。それは「皇帝」の専管事項であり、「郡太守」の仕事ではなかったものです。
つまり、「倭国」からの訴えを聞いた「帯方太守」は、「洛陽」へこの事を「報告」したと考えられ(「太守」本人が出向いたという可能性もあります)、「皇帝」の指示・決裁を仰いだものと思料します。「倭国王」はそれ以前に「親魏倭王」の称号と「印綬」を授けられていましたから、「東夷」の中でも重要な地位にあったと思われ、「太守」は「倭国王」からの訴えに対し速やかな措置・対応をする義務があったものでしょう。
「帯方太守」からの報告を聞いた「皇帝」は、「詔書」を下し、「黄幢」と共に「檄」を持たせたものと思料され、「太守」(王?)はそれを持って「帯方郡治」に戻り、部下の「張政」を「倭国」へ派遣したものではないでしょうか。(「張政」は「塞曹掾史」とありますから、「郡」や「県」で「太守」などが随意に任免できる地位の下級官僚であり、また「塞」の字がついていますから、「地方」の「夷蛮領域」の境界等に設置されている「魏」の出先の役所(兼防衛施設)などに詰めている人物と考えられ、「帯方郡治」に所在していたと考えられます)
この事については「古田氏」は『「海賦」と壁画古墳』(『邪馬壹国の論理』所収)において、『海賦』で述べられている以下の部分について「倭国が狗奴国との交戦によって陥った危急を急告、それに対する中国の天子のすばやい反応によって危難が鎮静された事件」があった事を示すとされ、この「正始八年記事」が該当することを述べておられます。
「若乃偏荒速告、王命急宣。飛駿鼓楫、汎海?山。於是候勁風、?百尺。維長?、挂帆席。望濤遠決、冏然鳥逝。鷸如驚鳧之失侶、倏如六龍之所掣一越三千、不終朝而濟所屆。」)
また、この「其八年」記事最終に「壹與」が「生口」や「白珠」などの貢献物を「魏」の皇帝に差しだしていることから(「詣臺」とされていますから、「洛陽」の皇帝に面会したものと考えられます)、この「来倭」が「皇帝」の把握するところであり、また「皇帝」の命じるところであったものであり、「郡」の太守の一存で行われていたものではないことは明らかであると思われます。そのような場合、彼は「任務」を速やかに終え、急ぎ帰還して報告するという「義務」を(直接的には「太守」に、また間接的には「皇帝」に対して)負っていたはずです。
彼が派遣された目的(趣旨)は「倭国王」からの「支援要請」に応えることですが、より重要なことは「魏」の大義名分を「倭国内」の諸国に認めさせることであり、「檄」を告諭したのも同じ意味と思われます。
それを「狗奴国」(及び「邪馬壹国」も)が受諾するかどうか択一をせまったものと思料します。
それに対し「狗奴国」としても「魏」と全面的な対決姿勢を取ることまでは考えていなかったと見られ、(「魏」が「本気」で介入してくる可能性を考慮したか)「檄」の意味するところを受け入れ、戦闘はその時点において停止し、和議が交わされたものと思料します。
その後「張政」は帰還し、それに「壹與」は貢献のための使者を同行させたものですが、従来はこの「壹與貢献」記事部分だけを「西晋の泰始(泰初)二年」(二六六年)の貢献記事(註二)と見て、それまで「張政」が「倭国」に滞在していたとする説が多いようですが、そのような長期間の滞在というものは考えることは困難であると思われます。それは上に見たような彼に与えられた「指示・命令」に反しているといえるのではないでしょうか。
(U)「復命」について
「魏」では「明帝」が「二三八年」に死去後「斉王」「曹芳」が即位し「正始」と改元されました。この「曹芳」から(間接的に)「張政」は「朝命」を下されたと考えられるわけですが、彼の代は「二五四年」まで続き、その後代わって「曹髦」が即位します。
この時点で「張政」が持参した「詔書」を下した「皇帝」は代わってしまったこととなります。もし「張政」が「倭国」に長期間滞在していたとしても、少なくともこの時点以降速やかに「帰還」し、「皇帝」や「太守」に対して結果報告を行う義務があったはずであり、「太守」も「新皇帝」に拝謁し、「前皇帝」から受けた「勅命」に対する帰朝報告を行い、また新任務を拝命されるのを待つこととなるべきではないかと思われる訳ですが、「張政」の帰還が「西晋」成立まで遅れたとすると、「帯方太守」も既に交替している可能性が高く(『魏志』には記載されていないものの)、「張政」がどこに帰還したとしても彼はほとんど「今浦島」状態ではないかと思われます。
「皇帝」の代が移ったり、新王朝が開始されるなどすると、「太守」が変更になることがあるのは当然であり、彼の「主人」である「太守」が代わった後も「倭国」へ「行ったきり」になって帰国しなかったと考える事には無理があります。
また、この文章が書かれたのが『魏志』の中であることも重要であり、そもそも「晋朝」への「貢献」はここに書くべき事ではないと考えられます。そう考えれば、この部分についても「正始年間」の記事として書かれたと理解するのが正しいのではないか思われます。
このような理解は先ほどの『海賦』からもいえると思われます。そこでは「不終朝而濟所屆。」と書かれ、この「終朝」が「古田氏」により「朝飯前の意」とされるように、事件の解決に時間がかからなかったことの比喩として書かれていると思われますが、そうであれば「基調と復命」は速やかに為されたと考えるべきであり、「西晋朝」の成立まで帰還しなかったと考えることと矛盾するでしょう。
(V)「卑弥呼」の死の時期について
ところで、このような想定は「卑弥呼」の「死」について従来とは別の考え方をする必要があることを示します。つまり、「支援」を要請された「張政」が倭国を訪れたその年(二四七年)の内に「卑弥呼」は「死去」したと考えざるを得なくなりますが、さらに言えば「張政」が来倭した時点では「既に」「卑弥呼」は死去していたのではないかと考えられるものです。
ここでは「卑弥呼以死」と書いてあります。それが「戦死」(あるいは「戦中死」)か宮殿内での病死なのかは一切不明ですが、「卑弥呼」は「死去」したとしか書いていません。
この「以」の語義については従来から「諸説」がありますが、漢籍に使用例を検索すると、最多と思われるのが、日本語の「もって」あるいは「…として」に近いものであり、「強意」とされます。(なくても意味は通じるという場合)
次に多いのが「理由」の意義として考える場合であり、「それで」や「だから」的な使用法です。さらに「すでに」という過去の意味で使用されている場合も見受けられます。この『倭人伝』の場合がそれらのうちのどれなのかということが問題となっているわけですが、
ただし『三国志』(というより「東夷伝」)に限って考えると、「已」と「以」とは完全に区別されて使用されており、「以」で「已」の意で使用されている例は皆無といえます。つまり「以」で「すでに」という意味はないといえるでしょう。
「以」の用例はすべて動詞の前について調子を整える程度の用法しか見られません。(「以」+「名詞」+「動詞」あるいは「以」+「動詞」という順となる、つまり名詞を目的語として挟む場合もある)
これらについて例外といえるものがないというのは重要です。そう考えると、「卑弥呼以死」という文は「単純」に「卑弥呼は死んだ」という意味以上のものはないこととなるでしょう。
その前後の状況を考えると、魏使が到着する以前に「卑弥呼」が死んでいたであろうことは推測できるものの、この「以死」に「過去形」あるいは「過去完了形」の意味はないと思われることとなります。ただし「現在完了」程度の意味はあると思われ、「魏使」の到着段階で「卑弥呼」の死が明らかにされたものではないかと思われ、そのため「詔書」と「黄憧」はいったん「難升米」に手渡されることとなったのでしょう。もちろんこれは不測の事態が発生したことを示すものであり、本来は「魏」の皇帝が遣わした使者なのですから「詔書」(および「黄憧」)は「倭王」たる「卑弥呼」に渡るべきものであったはずです。
このときは「狗奴国」との戦闘が激化していたものであり、それだからこそ「卑弥呼」は「魏」に仲裁を要請したものであり、そのような緊迫した状況と「卑弥呼」の死が関係ないとは言えるはずがなく、直接的な死因は不明ではあるものの「卑弥呼」は死去したということであり、それは魏使到着直前であったらしいと推察されるわけです。
考えてみれば「病死」なのか「戦死」なのか、「張政」が来てからであれば何か「死因」らしき事を書いても良さそうなものですが、それらは一切書かれておらず、それは「張政」が来倭する前の出来事であったために書いてはいない(書けなかった)と考えるのが妥当なのではないでしょうか。
(V)皇帝からの告諭について。
そもそも「詔書」「黄幢」「檄」などは全て本来「倭国王」へ授与され、また告諭されるものであったと考えられます。この記事の最終では「壹與」に対して「檄」を告諭していますが、そのことから考えても、当初「難升米」に告諭したように書かれているのは、あくまでも「倭国王」の代理としてのものであったことが知られ、その時点(「張政来倭」という時点)で「倭国王」たる「卑弥呼」が既に死去していたことが窺えます。(その時点で「卑弥呼」が存命中であるなら「壹與」に告諭したように「卑弥呼」に告諭するべきでしょう)
ところで上の「倭人伝」の文章からは「卑弥呼」が死去した後、「男王」が即位したものの、「国中不服」とされ、かなり激しい争いとなったとされています。この時点で「張政」が既に「来倭」していたかどうかですが、「卑弥呼」の死に際しては、「大作冢」(大いに冢(ちょう)を造る)と書かれており、多くの人手を要した事を示しているようですが、この様子が「大いに」という形容で「リアル」に表現されているところを見ると、その時点で「張政」はその場にいたように思えます。「径」が「歩」で表記されていることも、「張政」が自ら「歩測」したという可能性も考えられます。
すると「當時殺千餘人」という時点においても国内にいたこととなりますが、その争いについては彼は介入せず「傍観」していたものではないでしょうか。「後継者」を誰にするかと言うことについてまで「魏」が口を出すことはなかったとみられ、「属国」の国内政治については基本的に「不干渉」であったと思われます。(「狗奴国」のような対外勢力の話とは別の次元のことと考えられるわけです)
このため「張政」はその結論、帰趨を待ち、「壹與」が王として立てられ、「国中遂に定まる」という事態を見定めた上で、改めて「新倭国王」となった「壹與」に対して「檄」を告諭したということとなるのではないでしょうか。
この国内の混乱が何年も続いたとは考えられませんから(「歴年」等の長期間を示す描写や表現が見られません)、「その年の内に」収束したものと見られることとなります。そして「張政」の任務はそこまでであったのでしょう。「檄」に対して「邪馬壹国」「狗奴国」双方がこれを「受諾」したことを確認した上で「帰還」と言うこととなったと考えるべきと思われます。
この時点で「張政」が「帯方郡治」に帰還したのか直接「洛陽」に向かったのかははっきりしませんが、「還」という表現の直後に「因詣臺」とありますから、「倭国」から直接「洛陽」の皇帝の元へ向かったということも考えられます。その時点で「壹與」は「張政」に添えて「皇帝」に対する「使者」(掖邪狗等)を派遣し「生口」や「白珠」を献上すると共に「感謝」とさらなる「支援」を求めたと考えるべきでしょう。
「その後」「西晋」朝廷の成立に合わせ(二六六年)、「壹與」は再度「貢献」を行ったと理解すべきなのではないでしょうか。皇帝が代わったり、新王朝が成立した時点で「貢献」の使者を派遣するというのは時宜を得たものであり、この「西晋成立」時点の貢献はそのような意義で行われたと見るべきであって、「張政」の帰国とは無関係であったと推量します。
(補論)
この「張政」については、長期間「倭国」に滞在した結果が「倭人伝」の資料となったという「古田氏」などの考え方がありますが、すでに見たように「短期」で帰国したと考えた場合、そうは言いにくくなると思われます。
「陳寿」は当然彼の報告資料も参照したものと思われますが、主たるものはその以前に「卑弥呼」に対して行なわれた「魏」の「明帝」からの豪華な下賜品を倭国へ運んだ際の「魏使」からの帰朝報告であったと思われます。
このとき「倭国」に派遣された「建忠校尉梯儁等」は(彼等は)「卑弥呼」に直接面会したと考えられますし、「狗奴国」との戦いもそれほど情勢が緊張の度合いを高めていなかった時期と考えられ、彼等は「倭国内」をかなり調査して回ることができたのではないでしょうか。(投馬国」へ足を延ばしたのもこの時ではなかったかと思われます)
それに対し「張政」の場合は、上に見たように「戦時」であり、双方を「停戦」に合意させるというかなり困難な「任務」があったと見られ、それだけで忙殺されたとも考えられますし、「卑弥呼」は既に死去していて会うことができなかったとみられることや、「戦時」でもあり、行動の範囲が限定されたという可能性もあり、また「後継者争い」で「倭国内」が混乱していたと考えられる事からも、彼の見聞の範囲は余り多くなかったであろう事が推定されます。
そう考えると「張政」の報告が占める割合はそれほど多くはなかったのではないかと思料されますが、そのことが『倭人伝』の史料性格や信頼性に大きな変更(価値が少なくなるような)を考える必要が発生することとはならないと思われます。なぜならこの「張政」は「戦時派遣」であり、ほぼ純粋な「軍事報告書」の体を為していたと思われ、報告書の価値としては「張政」のものの方が高かったとも言えるでしょう。
結局「複数」の年次に行なわれた「別の角度」から見た使者からの報告を集大成したものが『倭人伝』の記述に反映しているとすれば『倭人伝』の正確性はかえって高まるといえるのではないでしょうか。
「註」
一.「すべての日本国民に捧ぐ 古代史…日本国の真実」新泉社所収
二.「晉書/帝紀 世祖武帝 炎/泰始二年」「二年十一月己卯,倭人來獻方物。…」及び「神功皇后紀」「六十六年。是年。晋武帝泰初二年晉起居注云。武帝泰初二年十月。倭女王遣重貢獻。」
「他参考資料」
坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注「古典文学大系『日本書紀』(文庫版)」岩波書店
井上秀夫他訳注「東アジア民族史 正史東夷伝」(東洋文庫)「平凡社」
石原道博訳「新訂 魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝―中国正史日本伝(1)」岩波文庫
「漢籍」(三国志、旧唐書など)の検索については、上の「文献」に併せ「台湾中央研究院」の「漢籍電子文献資料庫」のサイトを利用させていただきました。