ホーム:投稿論文:未採用分:「戸」と「家」 −「公式」な「戸」と「非公式」な「家」−:

(二)


「戸」と「家」について(二) 

「趣旨」
 前稿に引き続き「戸」と「家」について考察し、「戸」は「国家」が管理している戸籍情報であり、「家」はそれとは異なるものであること。『倭人伝』では「戸」は「官」から提供された「公式データ」であること。それに対し「家」は「推計」したデータであると推測されること。「一大国」と「不彌国」が「家」で表されているのは、軍事的情報を制限する倭王権の方針で「戸籍」に関するデータが示されなかったと考えられること。以上を考察します。

T.「魏使」が「戸数」を知るためには
 既に考察したように「戸」とは「魏」の「戸籍」と同様のものと考えられるわけですが、これは別の言い方をすると「戸数」とは「公式」なものであり、「戸籍」に基づくものであるといえるでしょう。そう考えると、それが通常の戸籍であるか「兵戸」や「陵戸」などの特殊な戸籍であるかを問わず、「魏」からの使者が「戸数」を知るには「戸」についての資料あるいはそれを元にした口頭説明などを「諸国」の「官」から受けなければならないこととなります。
 明らかに「戸」とは「国家」(官)の把握・管理している対象としてのものですから、部外者がそれを知るためには何らかの手続きを経なければなりません。そうしなければ決して知ることのできない性質のものであると考えられます。そのような資料が「魏使」に対して開示されたとすると「兵戸」あるいは「陵戸」のような特殊な戸籍であった場合は、「戸数」ではなく「家数」が開示されるという可能性が考えられ、この「一大国」と「不彌国」の「家数」表示がそうであったという事も想定可能でしょう。
 但し、その場合は「魏使」はその地域(「一大国」「不彌国」)について「軍事」に関連した地域であるという認識が形成されるわけですから、『倭人伝』中にその徴証が見えて然るべきですが、その様な事を窺わせる記述はこの両国には見あたりません。
 もし少しでも軍事関係の情報が入手できたなら必ず「魏使」はそれを書き留めたでしょう。この『倭人伝』の原資料は「卑弥呼」に「金印」を仮授するために派遣された「魏使」の復命書であるという考え方もありますが、それが正しければ「軍事情報」はこのような夷蛮の国に赴いた際の把握すべき最重要事項であったはずであり、その「軍事情報」が「一大国」と「不彌国」について見えないということはこれが「兵戸」「陵戸」のような特殊戸籍であるという認識を「魏使」が持たなかったことを示します。
 しかも、「一大国」の「家数」は「概数表示」となっています。そこでは「許」(ばかり)という言葉で「家数」が示されています。他の「戸数」表記に現れる「余」というものも「概数表示」であるように思えるかもしれませんが、これは表現を曖昧にしているだけであり、「概数」表記であるとは言い切れません。実際には「正確」に把握されているものの、それを全て書くと「冗長」なので省略しているだけという表現と考えられます。しかし「許」(ばかり)の方は明らかに「正確な数量」を把握していない、という事の表れですから、内容は明らかに異なると思われます。
 「官」から「公的情報」を入手したなら、他の「戸数」表記同様に「余」表示も含めて「確定値」として表現されて然るべきですが、そうはなっていないことから「担当管理」(卑狗など)から正確な情報が開示されなかったという可能性が示唆されます。
 これらのことから、この両国の「家」表記の理由として最も穏当な解釈は、「官」から「戸数」を開示されなかったから、と言うものが(ある意味単純ではあるものの)最も考えられるものです。

U.戸数が開示されなかった理由について
 前項で「一大国」と「不彌国」については「魏使」に対して、「戸籍」の基づくデータが提示されなかったという推定を行ったわけですが、その様な事となった理由としては次の事が考えられます。
 既に考察したようにこの当時「倭国内」で「戸籍」が作成されていなかったとは考えられないとしたわけですから、それが提示されないとすると、技術的というより政治的な理由であったという可能性が高いと思料されます。それについては色々考えられるものの、もっとも可能性が高いのは、やはりそれが「軍事情報」だからと言うことではないでしょうか。「軍事」に関する情報は「隠せるものは隠す」という方針ではなかったかと思料され、裏を返すと「戸籍情報」が開示されなかった「一大国」と「不彌国」には「軍隊」(あるいは軍事的施設一般)がいた(あった)と言うこととなるのではないでしょうか。
 つまり、この時の「魏使」に対しては「軍事」に関する情報等をまだ明らかに出来る(共有する)ような友好関係が構築されていなかったのではないかと考えられ、それはこの「魏使」の訪問が実質上「初」のものであり、「卑弥呼」が最初に「魏」に対して「遣使」した事に対する褒美の品などを下賜するために派遣された際の記録がベースになっているということが推量されることとなるでしょう。この時に「親魏倭王」の「印」等を「卑弥呼」の「宮殿」で「拝仮」されるということとなったものであり、それ以降は「魏」に臣従する「候王」として存在していくということとなったものと思われますが、この段階はその直前ともいうべき状況であったことが窺えるものです。
 このような事情があったため、「倭国王権」はそれが、(たとえ「魏」に対するものであったとしても)「軍事」に関する情報は極力「秘匿」したものと考えられ、「魏使」が通過した際この両国については「戸籍」に関する「資料」を見る機会がなかったか、あるいは担当官吏(卑狗)などが「教えてくれなかった」というような事情があったと考えることができるでしょう。
 「魏使」等はそのような場合はやむを得ず、何らかの方法(やや高いところからざっと家の数を数えたとか)で「家」の数を把握したと言う事ではないでしょうか。そして、それは「不彌国」についても同様であったと推測できます。
 「不彌国」は「邪馬壹国」の至近にあったと考えられますから、「首都」を防衛するものかあるいは「王権」そのものを防衛する役割があったと見られ、やはり軍事的拠点であったと考えるべきではないでしょうか。それは「首都」の近傍にしては少ない「家」の数からもいえると思われます。そのことは「不彌国」を構成する人達はほとんどが「兵士」であったことを推測させるものであり、通常の「国」の構成とは全く異なっていたと考えられることとなります。
 このように「諸国」に官が配置されているような体制は他の東夷伝には全く見られず、「倭人伝」に特有のものといえるものであり、「中国」以外では「例外的」に「倭国」に「中央集権的」権力がこの時点で存在していたことを示すものです。それを「魏」の王権でも重視していたことは確実であり、「卑弥呼」に「親魏倭王」という称号を与えたのはそのような「高度」な統治体制を構築したことに対する「賞賛」でありまた少なからず「畏敬」の念も含んでいたものと思われます。
 このような事を考えると「暦」や「戸籍」が「卑弥呼」の「邪馬壹国」や当時の倭国で広く行われていたと考えることは当然可能と思われ、この時点で既に「戸籍」が「軍事」「税」という国家にとって最重要なものの基礎として使われていたことは確実と思われます。そうであれば、「一大国」と「不彌国」の両方が「戸」表示でないのは、「戸籍」がなかったからではないことが強く推定できます。逆に言うと、この倭人伝の中で「戸数」表示がされているところは、それが「戸籍」に基づいていること、また「官」からその「戸籍情報」の開示があったと言う事を示すと思われる事を示します。
 つまり、そこに「戸数」が表記されている限り、時折言われるように「魏使」が「邪馬壹国」まで行っていないとか、「卑弥呼」には面会していないというような理解が成立しにくいことを示します。つまり「魏使」は実際に「邪馬壹国」に行き「官」に面会し、各種の情報を入手したと考えるべき事を示しますから、当然「倭女王」たる「卑弥呼」にも面会し、直接「魏皇帝」からの下賜品を授与したと見るべきこととなります。
 このことは『倭人伝』中の以下の文章からも推定できることでもあります。
「自女王國以北、其戸數道里可得略載、其餘旁國遠絶、不可得詳。」
 つまり、「其餘旁國」つまり「斯馬國」以下の「二十一国」については、「遠絶」のため実際に行くことが出来なかったから「戸数」表示が出来ないというのですから、「邪馬壹国」など「戸数」表示がされているところは「魏」の使者が実際に赴き「戸数」に関する資料の開示を受けたと言う事を明白に示すものと考えられます。

「参考資料」
石原道博訳『新訂 魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝―中国正史日本伝(1)』岩波文庫
井上秀夫他訳注『東アジア民族史 正史東夷伝』(東洋文庫)「平凡社」
久武綾子「古代の戸籍 −日本古代戸籍の源流を探る−」『愛知教育大学研究報告』四十号一九九一年
『三国志』は「台湾中央研究院」の「中央漢籍電子文献」サイトを閲覧