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「天王寺施薬院」と「出雲」について


(未採用論文。投稿日付は二〇一三年六月十一日。)

「天王寺」の「施薬院」について −「出雲」との関連において−

 ここでは「天王寺」の「施薬院」(勝鬘院)の起源と「倭国王権」の関係について述べ、さらにその「施薬院」と「出雲」とが関連している可能性について述べます。

一.「施薬院」と「勝鬘院」
 「聖武天皇」の皇后である「光明皇后」は「東大寺」に「四箇院」(「施薬院」「療病院」「悲田院」「敬田院」)を作り、貧しい人や病気の方達を献身的に介護したことが伝承として残っています。例えば「元亨釈書」によると「千人」の人の「垢」を取ることを祈願して、湯屋を建てそこで自ら多くの人たちの「垢こすり」をしたとされ、「全身」が「炎症」を起こし、あちこちが「膿んでいる」ような病気の方が来たときには、その傷口の「膿」を口で吸い取ったとされています。これほどの「献身」が、単に「光明皇后」という一人の女性の「思いつき」でできるものでしょうか。つまり、彼女には「啓発」されるような「前例」となる事例があったのではないかと思われるのです。

 ところで、現在「四天王寺」の別院として知られているものに「勝鬘院」があります。この「寺院」は元々「四天王寺」の「施薬院」として開かれたという伝承があり、またここで「勝鬘経」が講説されたという伝承もあって、そのことから「勝鬘院」と呼ばれるようになったとされています。
 この「四天王寺」は「聖徳太子」の手になる創建が伝えられていますが、この「別院」である「施薬院」についても同様に「聖徳太子」に関わるものとされ、ここでは、「薬草」の栽培から、「調剤」そして「投与」という段階まで行なっていたとされるなど、「貧窮」し、「病」に倒れた民衆の救済にあたっていたとされています。(以上「四天王寺縁起」による)
 このようなことが事実かどうかと言う点ではやや疑問とする向きもあるようですが、「光明皇后」の事例から判断すると実際にあった見る事もできると思われます。
 また「四天王寺」には「亀井の霊泉」と呼ばれる「泉」があり、これは古来からのものと考えられ(注一)、創建当時よりこれに対する信仰も篤いものとされます。それもやはり「病」あるいは「怪我」などの治療効果を期待してのものであったと考えられます。

 ところで、「四箇院」のような「病気治療」などに関連するものとして、「法隆寺」の釈迦三尊像の「両脇侍」の存在が注意されます。この「両脇侍」は「聖徳太子傳私記」では以下のように「薬王菩薩」と「薬上菩薩」であると考えられているようです。

「聖徳太子傳私記」
「…次法髮{問寺
先金堂。…。内陳南正面戸三本。余三面各戸一本。石壇長口〈傍一字消タリ〉。四面連子也。其内中ノ間。太子御印。與願施无畏。等身金堂釋迦像。〈光銘。太子御入滅事見タリ〉脇士二體。〈薬王。薬上。〉共手持玉。…」

 この「脇侍」は、本体は簡略な造形であるとされる一方、「蓮華坐」が技巧を凝らして造られているともされ、それは「法華経薬王本事品」の「女人の往生者は蓮華の中の宝座の上に生まれる」とされていることと関係しているという指摘があります。(注二)
(以下「法華経薬王菩薩本事品」の当該部分を示します)

「…若有女人、聞是薬王菩薩本事品、能授持者、盡是女身、後不復受。若如来滅後、後五百歳中、若有女人、聞是経典、如説修行、於此命終、即往安楽世界、阿弥陀仏、大菩薩衆、圍繞住所、生蓮華中、寶座之上。…」

 この「両脇侍」については、「釈迦像」が「尺寸王身」とされ「上宮法皇」(実は「隋書?国伝」に「倭国王」として記された「阿毎多利思北孤」を指すと考えられます)をかたどったものとされているとされており、このことの類推から彼の「母」と「夫人」を模したものであり、「鬼前太后」と「干食王后」を示すのではないかとされています。(ただし、この「干食」が名前の一部であるとは確実にはいえません)
 そして、この「釈迦如来」の「両脇侍」に「薬王菩薩」と「薬上菩薩」として彼女たちが配されているということは、彼女たちの「医療」に関する「功績」を示唆するものだと思われるのです。
 この「釈迦像」はその「光背」に書かれた文章によれば、「上宮法皇」(阿毎多利思北孤)の病に際して「造像」され始められたものとされています。(注三)その「銘文」からは、「釈迦三尊像」は「鬼前太后」が亡くなられ、「上宮法皇」が病に倒れた時点以降造り始められたと考えられますが、この「両脇侍」はその後、同時に亡くなられた「鬼前太后」と「干食王后」についての「追慕」と「畏敬」を表すため造られたものではないかと見られ、その際に「薬王」「薬上」菩薩に擬して造像されたものと考えられますが、それは上記「施薬院」を含む「四箇院」での「怪我や病気で苦しむ人を救う」という事業の遂行者が彼女たちであったことを示すものではないかと推察され、(注四)この「四箇院」は「阿毎多利思北孤」の「母」である「鬼前太后」など彼の近親の「女性」達により営まれた、当時としては画期的な「総合的福祉施設」であったものではないでしょうか。

 この「施薬院」には「薬草」を栽培する場所が附属しており、そこで数多くの「薬草」となる草木を植えていたと伝えられていますが、また『万葉集』にも、「茜さす 紫野行き 標野行き 野守はみずや 君が袖振る」という有名な歌があり(額田女王の歌)、そこで言われている「紫野」とは「塗り薬」として使用されていた「紫根」を栽培していたところと思われ、「標野」とはそのような「薬草」を取るために区画された領域であったと思われます。
 この歌は「大海人」と「額田女王」の間に交わされたとされ、「六六〇年代」の作と思われますが、このような場所が設けられるようになったのはそれほど昔のことではないと考えられます。それは「標野」そのもののについても「記紀」には全く現れず、「万葉」においてもこれが「最古」の例と考えられることからも言えると思われ、この歌が詠われたとされる「六六〇年代」をやや遡る「七世紀前半」付近に起源があるものと推定するのが相当と思われ、これらで得た「薬草」なども「施薬院」で人々の治療に役立てていたものと思料されます。(「紫草」については「小野妹子」が隋から持ち帰ったという伝承があるようです。真偽は定かではありませんが、奇しくも時代は一致します。)
 また、『書紀』には「藥獵(薬がり)」が行われていた事が記載されています。

「(推古)十九年(六一一年)夏五月五日。『藥獵』於兎田野。取鷄鳴時集于藤原池上。以曾明乃徃之。粟田細目臣爲前部領。額田部比羅夫連爲後部領。…」

 ここでいう「藥獵」とは、「野山」に出て「野草」などを取るものですが、女性は、野で「薬草」を摘み、男性は「鹿狩り」をして「若い牡鹿の袋角」を取ったもののようであり、これは「施薬院」で使用する薬を採集するためのものであったのではないでしょうか。
 この記事は「五月五日」にこの「藥獵」が行なわれた事を示していますが、この「五月五日」は古来中国では「薬草」を採取して「毒気」を払う時期とされていたものであり、例えば「夏」の時代の「農事暦」である「夏小正」では「此日蓄採?藥。以?除毒氣。」とされていますし、「六朝時代」の「荊楚」地方(揚子江中流域)の「年中行事」を記した「荊楚記」では「荊楚人。以五月五日並?百草。採艾以為人。懸門?上。以禳毒氣。」などとされています。(以上は「藝文類聚」より引用)
 この「藥獵」の日については「五月五日」という「数字日付」で表されており、「干支」表記ではありません。このような数字日付記事は『書紀』では非常に少なく、(他に三月三日など)月の行事として日付が固定されていたことが窺えます。この「五月五日」という日付そのものが『書紀』ではこれが「初見」であり、この年次付近で「王権」の正式行事として確定したのではないかと考えられます。
 これに関しては「隋書?国伝」には「毎至正月一日、必射戲飲酒、其餘節略與華同。」と書かれており、「正月」の他「節」ごとの催しはほぼ中国と同じであると書かれています。
 ここでいう「節」とは「節句」を意味するものと考えられ、それが例えばこの「五月五日」の「薬草」を集めることによる「疾病」を防止する行事等であったと思われ、記事によればこれらは最初の遣隋使が派遣された「六〇〇年時点」では既に「倭国内」ではごく一般的であったこととなるでしょう。その意味では「推古紀」の記事は「遅すぎる」ぐらいではないかと思われますが、「王権」の「行事」として行なうようになったのがこの年次付近であることを示すものかも知れません。
 後に「天智」の時代にも「藥獵」が行なわれており、その場所が「蒲生野」と記されていることから、この場所についても(字義通り)「蒲(がま)」の栽培を行なっていた「標野」であることが推定されます。「蒲」は「古事記」で、「大国主」の処方により「兎」の背中に塗ったとされる薬草です。
 「推古紀」でも「薬狩り」をした場所として上に見るように「兎田野」と書かれており、「兎」という字が入っているのは「偶然」ではないと思われます。
 
二.「施薬院」と「出雲」
 ところで、「古代」において「治療」というと、先にも触れましたが、「大国主」に関連した説話として知られている「因幡の白兎」というものがあります。(「古事記」では「稻羽」)この中では「大国主」は「八十神」に欺された「兎」に「薬」として「蒲」(がま)の穂を与えたとされます。
(以下「古事記上巻」の当該部分を示します)

「…於是大穴牟遲~ヘ告其菟 今急往此水門 以水洗汝身 即取其水門之『蒲黄』敷散而輾轉其上者 汝身如本膚必差 故爲如ヘ其身如本也 此稻羽之素菟者也 於今者謂菟~也…」

 ここでは『蒲黄』つまり「蒲」の「穂」の「花粉」を敷きつめた上に身体を横たえ回転させて、皮膚に付着させて治癒させたと云うように書かれています。
 そもそも「出雲風土記」には大量の「薬草」となる「草木」の名前が列挙されており、他郡を圧倒しています。まさに「薬」の「特産地」であることが示されています。
 その後も「続日本紀」等の史料には「出雲臣」とその子孫が「各代」の天皇の「侍医」を勤めていることなどが書かれ、「出雲」と「医術」の関わりが深いものである事及びその背景に「医」と「薬」に関する長い伝統があることを推定させるものとなっています。
 また「大国主」と共に国造りをしたとされる「少彦名命」は、「薬」に関係した神とされています。彼は『書紀』では「カガミ」(これも薬草の名前と考えられています)の皮で造った舟に乗ってきたとされていますし、『書紀』の「神代第八段一書第六」では「大国主」と共に人間や益のある動物のため、病を治す方法を定めたとされています。

「一書第六曰 大國主神 亦名大物主神 亦號國作大己貴命 亦曰葦原醜男 亦曰八千戈神 亦曰大國玉神 亦曰顯國玉神。其子凡有一百八十一神 夫大己貴命與少彦名命戮力一心經營天下 復為顯見蒼生及畜? 則定其療病之方 又為攘鳥獸昆蟲之災異 則定其禁厭之法。是以百姓至今咸蒙恩ョ。」

 また「古事記」では「八十神」にだまされて、大やけどを負った「大国主」自身が「貝」や「蛤」に助けられるというストーリーが語られていますが、それは「貝」の煮汁などによる効能を指すと考えられ、これも「出雲」における「薬」の知識の一端を示すものと推量できます。

「古事記(上巻)」「…於是八上比賣答八十~言 吾者不聞汝等之言 將嫁大穴牟遲~ 故爾八十~忿 欲殺大穴牟遲~共議而 至伯岐國之手間山本云 赤猪在此山 故和禮【此二字以音】共追下者 汝待取 若不待取者 必將殺汝云而 以火燒似猪大石而轉落 爾追下取時 即於其石所燒著而死 爾其御祖命哭患而 參上于天 請~産巣日之命時 乃遣貝比賣與蛤貝比賣 令作活 爾貝比賣岐佐宜【此三字以音】集而 蛤貝比賣待承而 塗母乳汁者 成麗壯夫【訓壯夫云袁等古】而出遊行…」

 さらに、「大国主」と「少彦名」については各地の伝承として「薬」と共に「温泉」の治療効果を人々に教えたとされています。
 『伊豫国風土記』(『釈日本紀』に引く逸文)には「大分の速見郡の湯」により「死んだはず」の「少彦名」を「大国主」が生き返らせる話が書かれています。
 また「風土記」逸文として「北畠親房」の「准后親房記」という書物(これは正体不明)に「伊豆国風土記」からの引用があるとされます。そこでは「大己貴」(「大国主」)と「少彦名」とが、民が早死にすることを憐れんで、「薬」「温泉」の術を定め、そのような中に「箱根」の湯もあるとされています。
(以下「風土記」に関しての読み下しは『秋本吉郎校注「日本古典文学大系 風土記」岩波書店』によります)

「准后(じゅごう)親房の記に 伊豆國風土記を引きて曰はく 温泉(ゆ)を稽(かむが)ふるに 玄古(むかし) 天孫(あめみま)未だ降りまさず 大己貴と少彦名と 我が秋津州(しま)に 民の夭折(あからさまにしぬる)ことを憫み、始めて禁薬(くすり)と湯泉(ゆあみ)の術(みち)を制めたまひき。伊津の神の湯も 又其ま数にして 箱根の元湯是也。 …」

 この「温泉」記事に関連したものとしては「出雲風土記」にも後の「玉造温泉」へとつながる記事があります。そこに出てくる「温泉」は「大国主」の御子である「阿遅須枳高日子」が言葉が話せずにいたものが「快癒」した事とつながっているものであり、「温泉」の効能が「大国主」や「出雲」という地域との関連で語られていることとなります。

 これらの「出雲」と「薬」あるいは「治療法」というものの間に深い関係があることや、「大国主」という存在が「力」だけを背景にした統治者ではなく「医療」など文化的側面においても傑出した存在であったことなどについては既にある程度認知されているようです。しかし、それらは一般には「弥生時代」のことであるとして、いわば「過去」の出来事というような扱いをされています。
 しかし、そうとばかりは云えないと思われるのです。それは、『書紀』で「医」「薬」について具体的な記事が見られ始めるのが「六世紀」半ばのことであり「温湯」に至っては「舒明紀」の「幸干攝津國有間温湯。」(舒明三年(六三一年)秋九月丁巳朔乙亥条)という段階まで記事が見られません。それまでも「湯」という単語に関連する記事は各種あるものの「温湯」ないし「温泉」という記事はこれが初出なのです。
 このように各種の資料等が示す「出雲」と「薬」また「温湯」というものの間に他の地域より緊密な関係が存在している事と、「六世紀」から「七世紀」というかなり「新しい」年代にそれらの記事が『書紀』に現れること、また既に見たように同時期に「施薬院」が設置され、病と傷の治療に「薬草」などの知識が導入されるようになることの間には深い「関係」があるように考えられるのです。

 例えば、「アイヌ」が狩りに使用していたことで有名な「トリカブト」という「毒草」があります。この「根」の部分の毒は特に強烈で「フグ毒」に次ぐとされています。しかし、この部分は「加熱」などの加工を加えると「減毒」される事が知られており、そのようにしたものは「痛み止め」あるいは「麻酔」としての効果があるものとされ、実用されていたようです。
 そして、これは「藤原京遺跡」から出土した木簡などから「七世紀末」当時「武蔵」など「東国」からの「貢納品」であったと推定されています。

「无耶志国薬烏…」(藤原宮跡西面南門地区出土木簡)

 ここでは「鳥…」とあるだけですが、「薬」とあること、同じ場所から出土した木簡に「无耶志国薬桔梗卅斤」とあり、「桔梗」は後の「延喜式」でも「薬草」として扱われていましたから、この「鳥…」も「薬草」と考えられ、該当するものは「鳥頭」と表記されることの多い「トリカブト」であると思料されます。
 この「鳥頭」や同じく「トリカブト」を意味する「付子」「木勇」については、いずれもその「和名」は「於宇」であるとされています。これは「出雲」にある「意宇郡」という地名との関連が強く示唆されるものであり、(「意宇郡」も「於宇」と発音されていたものです)本来「出雲」の特産であったという可能性があるでしょう。「出雲風土記」には「薬草」等の記載がぬきんでて多いことは既に述べましたが、中でも「意宇郡」が最多です。このことから、「トリカブト」も「意宇郡」の特産であった可能性が高いというのは、無理な想定ではないと思われます。

 当時も今も「薬」に期待する一番のものは「痛み」の解消であると思われ、それが「ケガ」であれ、「病気」であれ、痛みを伴わないものは皆無とも言えますから、「痛み」を和らげられるものが一番「珍重」されたものと考えられます。そのための「特効的」なものとして「トリカブト」が用いられたものではないでしょうか。
 「鳥頭」については「藤原京」木簡段階以降「東国」から「貢上」されていますが、「それ以前」はどうであったかというと、そもそも「東国」が「倭国」の直接統治範囲に入ったのが「七世紀初め」のことと考えられますから(注五)、それ以前から「トリカブト」が「武蔵」等東国から「貢上」されていたとは考えにくいこととなるでしょう。その場合「出雲」の「意宇郡」がその主要な貢上地域であったと推定できます。
 このことから、「トリカブト」を初めとする「薬草」に関する知識は、「出雲」につながるものであり、「施薬院」等の「四箇院」が造られる時点(「六世紀後半」から「七世紀初め」か)で、「王権」の内部に「出雲」の「薬」に関する知識あるいは「医療技術」のようなものが導入されたことを示すものと考えられます。また、それは「阿毎多利思北孤」や「利歌彌多仏利」あるいは「鬼前太后」などという「王権中枢」の人物達と「出雲」の間に何らかの関係があった事を推定させるものといえるでしょう。(そのことについての詳細は別稿に譲ることとします)

「結語」
一.「阿毎多利思北孤」は「天王寺」を創建すると共に「施薬院」など医療施設を建て、そこで彼の近親の女性達により「医薬」「医療」などを提供していたと推定できること。
二.その「医」に関する知識と技術は「六世紀後半」以降に「出雲」から導入したと推定できること。

(注)
一.「浪華百事談」等によると「人皇三十三代崇峻天皇の御宇、二年秋七月、聖徳太子、難波の地に初て伽藍を創立し玉ひ、四天王寺と号し玉へり、其旧地は、上古図の中に載せし如く、玉作の里の傍なり、其地当今森の宮の東にあたり、其時の大門、堂塔の跡、田圃の字に遺れり、又、亀井の霊泉は、今も田圃の内に存して、一千三百余年の星霜を経ると雖も、水涸ることなし、四天王寺此地に創立ありし時、逆浪あふれ、鳥蛇集りて、堂宇を破壊す、よりて、二十五年の後ち、今の地に転移して、再び伽藍を建立し玉ひしなり」とされ、この「浪華百事談」は明治時代の記録ですが、「亀井の霊泉」は「創建」の当初から存在していたものという伝承があり、「寺」が「移転」後も元の場所に「明治」においても「泉」は涸れることなく残っていたもののようです。
二.亀田孜「法隆寺の法華経関係の美術」仏教芸術一三二号 一九八〇年
三.「釈迦三尊像」の「光背」銘文のうち「関係部分」は以下の通りです。(奈良国立文化財研究所飛鳥資料館編「飛鳥・白鳳の在銘金銅仏」によります)(「/」は改行を表します)
「法興元卅一年歳次辛巳十二月鬼/前太后崩明年正月廿二日上宮法/皇枕病弗腦干食王后仍以勞疾並/著於床時王后王子等及與諸臣深/懐愁毒共相發願仰依三寶當造釋/像尺寸王身蒙此願力轉病延壽安/住世間若是定業以背世者往登浄/土早昇妙果二月廿一日癸酉王后/即世翌日法皇登遐癸未年三月中/如願敬造釋迦尊像并侠侍及荘厳/…」
四.「法隆寺釈迦三尊像」の光背銘文によると「阿毎多利思北孤」と「鬼前太后」「干食王后」はほぼ同時に亡くなったとされていますが、それは何らかの「感染症」によるという可能性もあり、それがこの「施薬院」等における「看護活動」の際に、患者から何らかの「病気」に「感染」した結果という可能性もあると思われます。同時期に複数の人間が病に倒れ、死に至るというからにはそのような「感染症」や「伝染病」を考える必要がありますから、「施薬院」の存在はその感染ルートとして考慮の対象とすべきものと思われます。
五.拙稿『「国県制」と「六十六国分国」 −『常陸国風土記』に現れた「行政制度」の変遷との関連において』古田史学会報一〇八号及び一〇九号


他参考資料
坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注「古典文学大系『日本書紀』(文庫版)」岩波書店
青木和夫・稲岡耕二・笹山晴生・白藤禮幸校注「新日本古典文学大系『続日本紀』」岩波書店
宇治谷孟訳「日本書紀」(全現代語訳)講談社学術文庫
宇治谷孟訳「続日本紀」(全現代語訳)講談社学術文庫
秋本吉郎校注「日本古典文学大系 風土記」岩波書店
倉野憲司校注「古事記(文庫版)」岩波書店
石原道博訳「新訂 魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝―中国正史日本伝(一)」岩波文庫
井上秀夫他訳注「東アジア民族史 正史東夷伝」(東洋文庫)「平凡社」
中村元「現代語訳大乗仏典三『勝鬘経』『維摩経』」東京書籍
間壁葭子「古代出雲の医薬と鳥人」学生社一九九九年
中野聰「法隆寺釈迦三尊像の所依経典と美術表象」龍谷大学仏教文化研究所所報第三十四号
「延喜式」「聖徳太子傳私記」「元享釈書」については「国立国会図書館デジタル化資料」より閲覧
「芸文類聚」は「台湾中央研究院漢籍電子文献」サイトによって検索し「閲覧」。
「四天王寺縁起」は「奈良女子大学附属図書館坂本龍門文庫善本電子画像集」を閲覧。