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「漢皇子」について


 前述しましたが、『書紀』には、「斉明天皇」は「『舒明天皇』と結婚する前」に「用明天皇」の孫「高向王」と結婚し「漢皇子」を設けた、という記事があります。
 この「漢皇子」については『古事記』には「忍坂日子人大兄」(『書紀』では「押坂彦人大兄」)が「漢王」の「妹」を娶ったという記事があります。

「御子沼名倉太玉敷命坐他田宮 治天下壹拾肆歳也 …又娶息長眞手王之女 比呂比賣命 生御子 忍坂日子人太子 亦名麻呂古王…此天皇之御子等并十七王之中 日子人太子娶庶妹田村王 亦名糠代比賣命 生御子 坐岡本宮 治天下之天皇 次中津王 次多良王【三柱】 又娶漢王之妹 大股王生御子 智奴王 次妹桑田王【二柱】 …」

 この「漢王」の孫が「漢皇子」とすると、「漢王」とは「高向王」のこととなります。(「皇胤紹運録」にはそのような記載が確認できます。)
 彼等には「漢」の字がつくのですから「渡来系」の人物であると考えられます。『書紀』によれば「寶皇女」は以前「高向王」と結婚していたとわざわざ書かれ、その「高向王」は「用明天皇の孫」とされていますが、このようなある種「余計」な情報をあえて書いていることには意味があると考えられます。
 ただしこの「漢王」の妹という人物については上に見るように「大股王」という名とされており、これは「難波皇子」や「春日皇子」の「弟王」とされる人物と同名ですから、「漢王」というのが実際には「難波皇子」の通称であったという可能性もあるでしょう。(その場合「大股王」は「女性」ということとなります。)
 「難波皇子」にかぶせられている「難波」という地名は「百済」からの渡来人が多数定住したところであり、古代において「漢」という呼称は「半島系」や「大陸系」にかかわらず使用されたことを思うと、彼を「漢王」という表現をしても不自然ではないこととなるでしょう。そう考えると「漢皇子」という存在は「難波王」などの孫達と同世代ということとなりますが、これは「年次操作」の結果であると思われ、実際には一世代上がった「栗隈王」などと同時代の人物であった可能性が高いと思われます。(前述しました)
 いずれにしても「漢皇子」が取るに足らない存在であったら、このような不必要とも言える情報を書き加えなければならない必然性はなかったでしょう。
 
 既に研究がされていますが、「押坂彦人大兄」(忍坂日子人太子)については「息長氏」に深い関わりがあると考えられているようです。彼の母は「息長真手王」の「女(むすめ)」とされていますから、彼の母方の祖父は「息長氏」であることとなりますが、「息長氏」はその名前が「海人」に特有の「素潜り」の技術に卓越しているという意とする考え方もあるようですから、「海人族」に関わる氏族と考えられます。またそれは「神功皇后」伝承からも言えることであり、その「海」に深く関係した数々の伝承は、海人族そのものであると言えますし、彼女の名も「息長」を冠せられていることなどを考えると、彼女も海人族の出であると考えられることとなります。
 そう考えると「大海人皇子」という人名そのものが「海人族」に深く関わるものであるのは自明であり、その意味では「阿曇」「宗像」「住吉」などと並び「息長」という氏族についても「大海人」との関係を考えるべきと思われることとなります。

 「舒明」の葬儀の際に「息長氏」の一人である「山田公」が「日継ぎ」を「誄」しています。古代において「誄」において「日嗣ぎ」を担当する氏族というのは亡くなった天皇(倭国王)に非常に近い立場の人間が行うのが常であり、この時も「舒明」に深く関わった人物が人選されていたと思われ、それが「息長氏」であるのは象徴的です。
 「舒明」は「日子人太子」の子であるとされ、その意味で間違いなく「息長氏」系であると考えられますから、「息長氏」による「誄」が行われたとして不思議ではありません。

 ところで「漢皇子」の母は「皇極」とされていますが、その「皇極」は『書紀』では「日子人太子」の孫とされていますし、既に見たように実際には「彦人大兄」の「庶妹」(腹違いの妹)であり、また彼の夫人となったとされています。その意味では「漢皇子」も「息長氏」系と言えるかも知れません。そう考えると、「大海人皇子」との一致に気がつきます。
 彼が「壬申の乱」を起こしたとすると『書紀』に書かれた「乱」のストーリーの中で「難波王」の子供達である「栗隈王」達とかなり友好的関係がこの「乱」以前に構築されていたように見える事が気になります。彼らとの関係がかなり深いことが考えられますが、それが「漢皇子」のこととすると、全ての事実が整合します。つまり彼が「難波王」の妹(大派王)の子ないしは孫であるとすると、「難波王」の子供達との関係が友好的なのは不思議も何でもなくなるでしょう。
 そう考えると「百済宮」や「百済寺」を作り、死去したときは「百済の大殯(もがり)」と称される葬儀を行ったとされるように「舒明」が「百済」一辺倒であったことも不審とも言えなくなるものです。彼の伯父の可能性も考えられる「難波王」が「漢王」と称されるように「難波」に拠点を持っていた「百済」からの渡来人達と多く接点を持っていたことがそれにつながっていると言えるからです。


(この項の作成日 2010/12/29、最終更新 2014/12/06)