「天智」の「無名指切断」のエピソードについては、その多くが「弥勒」との関連で語られていることは注意を要します。
「弥勒信仰」は明らかに「後代的」であり、「六世紀末」から「七世紀初め」という時期には「倭国内」にはほとんど浸透していなかったと考えられ、それは「遣唐使」として派遣された「僧」が「経義」を学んで帰国した後に隆盛したものと考えられます。特に「法相宗」では「弥勒」が主尊であり、三蔵法師「玄奘」が信仰していたものが「弥勒」であったとされ、彼に師事した「道昭」「智通」「智達」等の帰国後「弥勒信仰」が起きたものと考えられます。その「道昭」の帰国年次としては「六六一年」という説が有力です。このことから、一見この説話の時代もそのような「弥勒信仰」の高揚した時期と考えられがちです。例えば「藤氏家伝」にも「…。故賜純金香爐、持此香爐、如汝誓願、従観音菩薩之後、到兜率陀天之上。日々夜々、聴弥勒之妙説。朝々暮々、転真如之法輪。…」というような文言が書かれ、そこでは「死後」「弥勒」から「妙説」を聴く、というようなことが言われています。
また、「野中寺」の弥勒菩薩像の台座銘には「丙寅年四月大旧八日癸卯開記 栢寺智識之等詣中宮天皇大御身労坐之時 請願之奉弥勒御像也 友等人数一百十八 是依六道四生人等此教可相之也」とあります。この「丙寅年」は通常「六六六年」と考えられており、これは「弥勒菩薩像」と「天智」が関連している証左であるとされています。つまり「中宮天皇」とは「天智」を指すというわけです。これらのことから、「弥勒」信仰と「天智」には強い結びつきがあるように考えられています。
しかし「三経義疏」の一つである「維摩経義疏」の中では「弥勒」に対して以下のような「批判的」言辞が確認でき、これが「六世紀終わり」の時期に「百済」から「法華経」が伝来して以降成立したものと考えられ、これを「聖徳太子」の書とする説もあり、その意味で当時の「倭国王権」のなかでは「弥勒」は信仰されていなかったという可能性が高いと考えられます。
「維摩経義疏」には(菩薩品第四)「弥勒」について「今禰勒に凡そ四の執あり,一に己に勝行ありと存し,二に受記を存し,三に菩提の果を存し,四に滅度の涅槃を存す.前の二は是れ因の執,後の二は是れ果の執なり,今諸天の機,応に無相の空行を聞かんとす.而るに今此の四の存を以て為に説くが故に,則ち説と機と差(タガ)へり」とあり、さらに「一には云はく,菩提は即ち是れ佛の無上智なり.言ふこゝろは,真諦の中には禰勒の空と衆生の空と一相無二にして得と不得となきが故に『若禰勒得菩提一切衆生亦得』と云ふ.二には云はく,今菩提と言ふは即ち是れ真諦なり.禰勒と衆生と,皆即ち真諦なり.故に『一切衆生亦得』と云ふなり」と書かれています。この「維摩経義疏」の文言は「弥勒」対する「距離感」を示し、「傾倒している」とは言えないことを示すものです。
さらに「遣隋使」によって(あるいは同行した隋使により)「法華経」(「提婆達多品」が補綴されたもの)が伝えられたものであり、これは「訓令」の一部であったと考えられるわけですが、それを示すように「法隆寺」には「弥勒菩薩像」がありません。「中宮寺」や「広隆寺」には「弥勒菩薩像」があっても、「肝腎」の「法隆寺」にはないのです。
「法隆寺」は既に考察したように元は「元興寺」であったものであり、また「倭国」で初めての「勅願寺」であったと考えられますから、この「寺院」に「弥勒菩薩像」がないと言うことは、当時の「倭国王権」の信仰には「弥勒」がいなかった事を示すものと推量します。
この「元興寺」の「本尊」は元々は「釈迦像」と「阿弥陀繍仏」であり、そのため「四月八日」をもって「堂内」に「丈六仏像」を入れようとしたというエピソードが語られています。しかし「弥勒像」はなかった模様です。
つまり、「聖徳太子」にその存在が投影されている「阿毎多利思北孤」やその太子「利歌彌多仏利」達は「弥勒信仰」の中にはいなかった事を示すと思われることとなります。
また、上に見たように「藤氏家伝」では「鎌足」が「弥勒信仰」をしていたように伝えられていますが、以下の資料ではその「弥勒」と「弥勒信仰」に批判的である「維摩経」を「元興寺呉僧」「福亮」から「講説」を受け、そのために私財を投じたとされています。
『扶桑略記』「(斉明)三年丁巳(六五七年)。内臣鎌子於山階陶原家。在山城国宇治郡。始立精舎。乃設斎會。是則維摩会始也。
…
同年 中臣鎌子於山階陶原家。屈請呉僧元興寺福亮法師。後任僧正。為其講匠。甫演維摩経奥旨。…」
『日本帝皇年代記』「戊午(白雉)七(六五八年) 鎌子請呉僧元興寺福亮法師令講維摩経/智通・智達入唐、謁玄奘三蔵學唯識」
『元享釈書』「齊明皇帝の段」
「四年七月、通達二師、奉敕乘新羅■入唐、受相宗於玄奘三藏。是歳、呉僧元興寺福亮、赴鎌子請、於陶原家講維摩經。爾來、鎌子延海内碩徳、相次講演凡十二年。」
このように「維摩経」の講説をわざわざ「私財」を投じて受けているということ、しかもそれはただ一回だけではなく、「十二年」もの長きに亘ったとされており、「道昭」が帰国して「弥勒信仰」が新たに起こったとされる時期をその中に含んでいます。それを考えると、その中で批判的な書かれ方をしている「弥勒」を「鎌子」が信仰すると言うことははなはだ考えにくいこととなるでしょう。この事から一見「道昭」によって「鎌足」の「弥勒信仰」が始められたという見方もできると思われがちですが、その「道昭」は帰国後「周遊」に出たとされ、各地に伝道して回ったらしく、王権の元に還った事情については『文武紀』に「和尚周遊凡十有餘載。有勅請還止住禪院。」(文武四年(七〇〇年)三月己未条)とされ、「飛鳥寺」への帰還は「六七五年前後」が推定されますが、この時点では「鎌足」も「天智」もすでに「死去」しています。つまり「道昭」から「弥勒信仰」が「天智」など「王権」に伝来し浸透したとは考えにくいこととなるでしょう。
ただし、「鎌子」の長子である「定恵(定慧)」からの「伝来」というのは考えられなくはありません。
彼の帰国は「六六五年」(劉徳高等の来倭に便乗したもの)とされますが、彼は「玄奘」の元で「仏典」の漢訳作業を行なっていた「神泰法師」に師事したとされ、「間接的に」彼から「弥勒信仰」が伝えられたという可能性もあり、彼が「天智」に「弥勒信仰」を伝授したという事も想定することは可能ではあります。
彼は帰国後「暗殺された」という説もあるものの『日本帝皇年代記』には「甲寅七 多武峯開山定慧法師入滅、大織冠鎌足之長子也」という記事もあり、この「甲寅七」というのが「七一四年」を意味すると考えられますから、かなり長期間健在であったとも考えられます。(「元亨釈書」にも同様の記事があります)しかし、そうであれば父である「鎌子」が「維摩経」の講説を受け続けたという記録とは矛盾すると考えられます。
つまり、帰国した「定恵(定慧)」と一番接近した日々を送ったはずの「鎌子」が「終生」「維摩経」を信仰し続けたと考えられるわけであり、そうであれば彼の信仰に息子の「定慧」が全く関与していないということとなりますから、「定慧」から「鎌子」や「天智」に「弥勒信仰」が伝授されたとはいえないこととなります。
これらのことは「鎌足」やその盟友とも考えられる「天智」の「弥勒信仰」というものが本当にあったのか疑わしいこととならざるを得ないものです。
(この項の作成日 2013/05/07、最終更新2015/04/23)