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阿弥陀信仰と阿毎多利思北孤


 「古賀氏」の研究により、「九州島」が「筑紫・九国・大宰管内諸国・鎮西・西海道」というような名称を「九州」という名称に変えて使用し始めるのが「平安」の終わり頃の話である事が判明しています。(※)
 嘉承三年(一一〇八)の太政官符案(観世音寺文書)にみえる「九州」が九州島を指すものとしては現存最古のようであるようです。この時「最初」に「九州」という呼称を使用し始めたのが、「観世音寺」であることがこれにより判明しています。
 「観世音寺」はこのように平安時代の末期という時期になって、自身の存在する「地名」として「九州」を自称し始めるわけですが、これは「古賀氏」が言うように「律令体制の崩壊」と「武士の台頭」という時勢が社会不安を呼び、「封じ込められていた記憶」(以前九州と呼称された、という記憶)が呼び起こされたものであろうと思われますが、さらにこの要素に付加・補強するものとして「末法思想」による「浄土信仰」を挙げたいと思います。

 「律令体制」がなぜ崩壊していくのか、と云うのはなかなか難しいですが、最も決定的な理由は、このような「律令体制」が「天皇親政」を原則としており、そのことは必然的に「強い天皇」の存在が必須であったことを意味します。
 そもそも「律令体制」の発祥である「統一国家」(国郡県制)というものが「始皇帝」により始められたものであり、それは彼の後継が「弱い人物」であったがために即座に崩壊したことからも、「強権」というものと不可分のものであったものです。
 中心権力がその強さをを減じると「末端」に対する統制が効かなくなります。「日本」の場合、「律令制度」の「末端」で、「民衆」と直接接する領域である「国司」(受領)たちの自己保身と「摂関家」に対する奉仕などのため、苛烈な「搾取」が全国的に行われることとなり、それを中心権力はそれを阻止、修正できなくなったものです。
 このように統制が効かなくなると、「律令」として決められたことが「無視」「軽視」され、「班田」であるとか、「出挙」などの「公正」な執行を大きく妨げるものとなったと思われ、数々の違法行為が横行する土壌となったものであり、そしてそのような状態を制御できない「朝廷」に対し、誰もその継続を望まなくなったのではないかと思われます。
 つまり、「律令体制」の崩壊とは、すなわち「天皇家(朝廷)」による政治(親政か摂関かによらず)が「望まれなくなった」状態と思われます。特にこれらのことは「西海道」(旧倭国)で著しく、国家に対して「社会正義」の執行が望めなくなったとき、人々は「宗教」に救いを求めるようになったのです。

 平安末期になると「末法の世」と言われるようになり、貴族や皇族に「阿弥陀信仰」(浄土信仰)が起こります。
 「末法」とは、釈尊(仏陀)入滅から二千年を経過した次の一万年のことを言い、「教えだけが残り、悟りを得られなくなる」と言う時代になるとされています。このような考えは上述した「律令体制の空洞化」と「武士階級の台頭」という流れの中で、貴族も民衆も「不安」に駆られ、その「不安」が「この世では救済されない」という思いになり、「来世で浄土に生まれ変われる」という「浄土思想」に結びつき、「浄土」といえば「阿弥陀如来」が生まれ変わったという「西方浄土」に特に結びつけられて信仰されることとなったのです。
 「末法思想」は民衆に対して現状(社会の不安定さ)を「根拠」を以て説明できると共に、そのような不安にあえぐ人々に「救済」の道を示したのであり、それは「西方浄土」にあの世で生まれ変わることしかない、と言うことでした。こうして「浄土信仰」の隆盛につながっていくのです。
 「西方浄土」におられ、人々を導いているのは「阿弥陀如来」であり、「浄土信仰」は即座に「阿弥陀信仰」につながるのです。
 このような背景があるとするならば、特に「九州」の地で「阿毎多利思北孤」或いは「利歌彌多仏利」に対する「信仰」が「復活」したとしても不思議ではないと思われます。それは「倭国」で「阿弥陀信仰」が早くに起こり、その中心とも言うべき場所が「筑紫」であったと思われるからです。なかでも「元興寺」は彼が倭国内に「阿弥陀信仰」を強く推進した場所そのものと考えられ、その「本尊」(繍仏)も「阿弥陀来迎図」が書かれた「繍帳」であったと考えられるものです。

 この「阿弥陀信仰」は「平安」の末に初めて現れたわけではありません。それは「飛鳥時代」「六世紀」から「七世紀」の始めにかけての動きであったと考えられ、「法華経」伝来と共に始まったと考えられます。
 『二中歴』によれば「五八七年」に「法華経」講義が「隋」からの使者により行われたものであり、これが「阿弥陀信仰」の始まりと考えられます。
 この「法華経講義」を承けて、「阿毎多利思北孤」が自らを「阿弥陀如来」になぞらえ、国内に「法華経」拡大策をとり、各種寺院の建築を行なわせました。そして「国県制」を施行した際に「法華経」の「経典」に則り「三十三」という数字に基づき、「三十三国分国」を行い、それまでの「三十三国」と合わせ国内を「六十六国」に別けたのです。
 他にも彼は「王都」の建設を行いました。そして、その「王都」中に「法華経」を具現化した「寺院」を建立したのです。その寺院は後に「奈良明日香」に移築され「法隆寺」となったと考えられます。
 そして「移築」の際に「筑紫」には「三十三間堂」が残されたため、そこに「観世音寺」を創建したことで「観世音寺」がその後「阿弥陀信仰」の「中心」として存在することとなったものと考えられます。

 「平安時代末期」の律令体制の空洞化とそれの原因である天皇家の権威低下という事態が起きたとき、「太宰府」官人や「観世音寺」の関係者をして必然的に「三十三間堂」の存在と、それが「阿毎多利思北孤」と「利歌彌多仏利」という二人の人物と関連して記憶が甦ることとなったとと思われます。
 彼(彼ら)こそ、倭国王として初めて「天子」(天王)を自称したものであり、直轄統治領域として「九州」という用語を使用した王なのであって、「法華経」に帰依した「阿弥陀信仰」の中心にいる人物であったのです。
 
 「観世音寺」はその後も「九州」の仏教の一大拠点でありつづけ、「鑑真」が「倭国」に初めて来たときも「観世音寺」の隣に「戒壇院」を設け「授戒」しています。その後も「下野」の「薬師寺」とともに東西の「戒壇院」として存在していましたし、「観世音寺」という寺号も「阿弥陀」の「脇侍」としての「観世音菩薩」の存在に深く関係していたものです。
 「観世音菩薩」が信仰される根拠、というのは「浄土宗」(浄土教)の根本教典である「浄土三部経」の中の「無量壽経」にこの菩薩がいること、「観無量壽経」という教典では「観世音菩薩」を観ずる方法が説かれていることなどがあり、また「法華経普門品」(第二十五)では「観世音菩薩」を念じれば災難・恐怖から救われるという教えが説かれています。このように「観世音菩薩」は「阿弥陀仏」の「慈悲」「救済」を象徴した「菩薩」とされるのです。(もう一人の脇侍である「勢至菩薩」は「阿弥陀仏」の「智慧」を象徴した「菩薩」とされています) 
 
 『二中歴』によれば「六二三年」に「仁王経」(「仁王般若波羅密経」)が伝えられたので「法会」を行った、という記事があります。これは「法隆寺」の「釈迦三尊像光背」に書かれた「上宮法皇」(「阿毎多利思北孤」)夫妻とその母の鎮魂を目的として法会を行ったものと考えられ、そのために「唐」の国から招聘したものとも考えられます。
 また、これを「契機」として「仁王」と改元しているようです。このとき伝えられたという「仁王般若波羅密経」というのは、「世尊(仏陀)」が霊鷲山(りょうじゅせん)に住し、瞑想に入られた時、「世尊」を取り囲んでいた僧や菩薩たちの中から「観自在菩薩(観世音菩薩)」が立って説法を始めた、という内容の文章があるなど「観世音菩薩」との関係が深い経典です。このように「観世音寺」という寺号の中には「阿弥陀」信仰が表現されているのです。
 そして、最初に「阿弥陀信仰」を推進した人物といえば「阿毎多利思北孤」(「上宮法王」)というように、強く記憶に残っていたのだと思われます。
 「観世音寺」(三十三間堂)における「阿弥陀信仰」は即座に「阿毎多利思北孤」信仰であったのです。その信仰は「太子」である「利歌彌多仏利」が推し進めたものであったと思われます。


(この項の作成日 2003/01/26、最終更新 2016/12/25)