「半島」の政治情勢については以前から「三国」が相互に侵略を繰り返す不安定な情勢が歴年続いていましたが、「六四二年」になって、「百済」の「義慈王」と「高句麗」の「淵蓋蘇文」との間に「麗済同盟」が締結されます。これは、特に「対新羅」に重点を置いて結成されたもので、相互防衛条約とでも言うべきものであり、互いに軍事行動を起こした際には共同してこれにあたる、という内容であったようです。これにより、直接攻撃の矢面に立たされることとなった「新羅」の「善徳女王」は「唐」と「倭国」の両方に援軍を求めたものの、「倭国」は積極的に反応せず、「新羅」は「唐」との関係を前面に押し出すこととなり、後に「唐羅同盟」が結成されることとなります。
「倭国」は「六四〇年」の「甲子朔旦冬至」のイベントに参加した際に「唐使」を招請し、「高表仁」を迎えますが、「倭国王」が彼に対し「唐」の制度に則った「儀礼」を行わなかったため、激怒した「高表仁」が「皇帝」からの国書を伝達しないで帰国するという事件が発生し、その結果「唐」との関係が緊迫化したため、国交が途絶えることとなっていました。そのためそれ以降は「百済」に偏した外交となっており、これら半島各国と「唐」との間の緊張関係の高まりが「倭国」に及び、その結果「新羅」だけではなく「唐」との関係のさらなる悪化という可能性が出て来たのです。
「倭国」はこの「高表仁」の一件以来の「唐」との関係を「緩和」させる必要があると考えたものと見られ、絶えていた国交を回復させ、正常化させようとしたものでしょう。その「仲介役」を「新羅」に依頼しようとしたのだと考えられます。「新羅」も「倭国」を「麗済同盟」に組み込ませないようにするために、「唐」との仲介に乗り出したものではなかったでしょうか。
そのため「六四六年」になり問題となった「倭国王」が死去し、それを知らせる「使者」を「新羅」に送り、翌年葬儀のため来倭した新羅の「金春秋」をもてなし、「新羅と起居を通じ」と『旧唐書』に書かれたように「新羅」に対し友好関係回復のメッセージを送り、あわせて「金春秋」に「表」(国書)を託したものです。それは『旧唐書』に「新羅に表を付して唐に使いを送」るとあるように「唐」との橋渡しを頼んだ訳です。
これらのメッセージはとりあえず「唐」に伝わったものと見られ、「白雉」年間の遣唐使団やその後の「壱岐博徳」の遣唐使団派遣につながったものと見られます。
「唐」の三代皇帝「高宗」は倭国からの遣唐使に対して「璽書」(璽を捺印した書状)を下して、「新羅」を救援するようにと指示しています。
「時新羅爲高麗百濟所暴 高宗賜璽書 令出兵援新羅」
この時代柵封された諸国にとり「唐」の皇帝という存在は「絶対」であり、その「唐」皇帝からの「璽書」も同様に「絶対」であり、これに反するということは事実上できないことであったものです。「倭国」は「柵封」されていたというわけではないものの「域外募国」として「唐」皇帝を「天子」と「尊崇」していたものです。(この辺りは「伊吉博徳」の記録に明らかです)「新羅」を通じて「唐」との国交を回復したという点からも「唐帝」が「新羅」との友好を進める様にという指示を与えたのも理解できるところです。このように一旦急あれば「新羅」に対する援助を行うことを指示したことで「倭国」はその外交方針が非常に決めにくくなったものであり、方針決定を困難なものとした理由の一つと思われます。この「璽書」が下されたことにより「百済」と連合して「新羅」と対抗するということが事実上できなくなったと見られます。なぜならそのような行為は下された「璽書」に反することとなり、「唐」の「朝敵」となってしまうからです。
この時点の「倭国王」はその後「未幾」つまり「幾許もなく」亡くなりますが、次代の「倭国王」もこの「璽書」を無視するわけにはいかなかったものと見られます。彼らの時点であっても「百済」と連係して「新羅」と相対することは出来ないという状態が続いていたということがうかがえるわけです。そして、「伊吉博徳」らの遣唐使たちが、両京に分けて捕らえられだ時点で「高宗」が発した「海東の政」を行う宣言の時点でも、「倭国」は(自動的に)「新羅」と連係すべき事となっていたわけです。
しかしそれ以前に「百済」から「援軍要請」が来た段階で「倭国王」は決断したものであり、この「高宗」からの「璽書」を破棄し、対新羅戦対唐戦に軍を派遣することとなったと見られます。「伊吉博徳」達の遣唐使の派遣意義は唐国と唐皇帝の懐柔が目的の一つであったと思われますが、彼等が唐へ到着後「半島情勢」が急変したわけであり、倭国王が方針を変更する決定を下したのも彼等が「唐」にいる間であり、その意味もあって「伊吉博徳」達は「抑留」されることとなったと思われます。
そもそも「高宗」の命令は倭国の意志とは違っていたと考えられ、倭国としては「百済」との関係こそ重要と考えていたものと思われるわけです。
確かに「新羅」に「表」を託して「唐」との国交を回復させるなどの策を行っているようですが、「新羅」を通じたのは「やむを得ない仕儀」ではなかったかと思われ、「新羅」が「百済」と争いになると「百済」側に肩入れする形とならざるを得なかったものと見られ、「新羅」に援軍せよという指示は東アジアにおけるパワーバランスを考えなかったものであり、受け入れがたかったのではないでしょうか。
このことから「唐」から見て「倭国」は「高宗」の命に従わなかった訳であり、「謀反」と思われたという可能性さえあるでしょう。(封国ではなく官位も与えられていたわけではないので、厳密には「謀反」とは言えませんが)これを踏まえたうえで「朔旦冬至」の式典を口実として使者を呼び出し、彼らを「人質」としたうえで「対百済」戦に臨んだものとみられるわけです。これが策として有効であったかは疑問ですが、「唐」としては取れる手段はすべて実行する予定であったことと思われ、その周到ぶりがうかがえます。
「唐」は「麗済同盟」に対抗するため「新羅」との間に「唐羅同盟」を結び、「百済」や「高句麗」の動きに神経をとがらせていました。そして「六五九年正月」になると新羅王「金春秋」から「麗済同盟」による攻撃を受けた連絡があり、唐は「程名振」「蘇定方」らを遣わして「高句麗」を攻撃させたものです。この時点で「倭国」が「高句麗」や「百済」と結託しているという疑いが「唐」側にあり、「倭国」からの使者が「質」にとられる事態となったものと思われるわけです。
このように朝鮮半島では「唐」と連係した「新羅」の勢力が非常に強くなり、「六六〇年」には「唐」「新羅」連合軍により実質的に「百済」という国は滅んでしまいます。これに対し「倭国」は「百済」が滅亡の危機にさらされた時点から既に「連合」して「唐」「新羅」との戦いに臨んでいたと思われ、その「初戦」で「倭国王」(薩夜麻)が捕囚になるなどの大敗北を喫し、ますます「引くに引けない」状態となってしまっていたものです。
「九州倭国王朝」では『宋書倭国伝』に記載されている「武」の上表文などで明らかなように、戦いの際には王とその嫡男は先陣を切って戦いに臨む風習があり、当時の倭国王と考えられる「薩夜麻」はそれを実践したのでしょう。(彼自身は未成年であり子供はこの時点ではいなかったと思われます)
さらに、「旧百済」国内の各地に分散していた「百済」の遺臣が挙兵したのに併せ、倭国に人質としてきていた「百済王子」「扶余豊」にサポート役として軍隊をつけて送り、「新百済王」として擁立しようとしたのです。
ところで、この「扶余豊」という人物については「義慈王」の子供であり、「質」として「倭国」に送られてきたのが「六三一年」とされます。しかし、「義慈王」が「百済国王」となったのは「六四一年」であり、それから考えると「扶余豊」が「質」とされたのは「皇太子」時代のこととなります。しかし、人質はそれなりに位の高い人物でなければならず、現国王の「孫」というのではそれこそ多数に上る訳ですから、ある程度相手国の政治的行動範囲を制約せざるを得なくなるほどの近親の人物でなければ「質」としての意味がないと思われます。そう考えると、「義慈」が「百済王」となった時期(六四一年)という段階以降に「倭国」へ「人質」を差しだしたと仮定しなければ不合理と言えるものではないでしょうか。その場合であれば「新百済王」としての「倭国重視」というその後の大動乱につながる政治的スタンスが良く理解できることとなるでしょう。その場合、「十〜十二年ほど」の年次移動が行なわれているという可能性があることとなります。つまり「豐章(扶余豊)」が人質になった記事と「高表仁」記事はリンクしている可能性が高く、この人質記事の本来の年次が「六四〇年」であった事を示すものではないかと思われます。
既に述べたように「六四〇年」付近は「倭国」にとって転機ともいえる年次であり、この段階で「百済」から質として王子を受け入れたとすると「百済」との軍事的な「連合」というものが「倭国」においても強く意識されることとなったものと思われます。
「百済」から「扶余豊」を迎え入れた直後に「高表仁」が来倭しその中で「倭国王」と「高表仁」は「禮」をめぐって衝突したというわけですが、そのような強気の態度の裏側には「百済」との軍事的結びつきを過剰に評価したと云うことがあったのではないでしょうか。
また『三国史記』の「義慈王十三年」(六五三年)に「倭国」と「通好」したという記事があり、この時点で「質」として来倭したという可能性を考える向きもあるようですが、ここで云う「通好」、つまり「よしみ」を「通わせる」という記事が具体的に何を意味するかと云うことが不明な訳であり、「人質」を差し出すというようなことを意味するとは断定できません。たとえば、それ以前にも「百済」が「高麗」と「通好」したという記事がありますが、「義慈王」が「高麗」に「人質」を出していたという記録は見あたりませんから、「倭国」との「通好」も「人質」ではない別の何かを意味すると云えるのではないでしょうか。
それを僅かに示唆するのが『書紀』に出てくる「百済」からの「弔使」記事であり、その人数が「六五三年」以降「一〇〇人以上」と大人数となっているのが注目されます。
「(斉明)元年(六五五年)秋七月己已朔己卯条」「於難波朝饗北北越。蝦夷九十九人。東東陸奥。蝦夷九十五人。并設百濟調使一百五十人。…」
「同年是歳条」「高麗。百濟。新羅。並遣使進調。百濟大使西部達率余宜受。副使東部恩率調信仁。凡一百餘人。蝦夷。隼人率衆内屬。詣闕朝獻。新羅別以及■彌武爲質。以十二人爲才伎者。彌武遇疾而死。是年也太歳乙卯。」
「(斉明)二年(六五六年)是歳条」「於飛鳥岡本更定宮地。時高麗。百濟。新羅。並遣使進調。爲張紺幕於此宮地而饗焉。遂起宮室。天皇乃遷。號曰後飛鳥岡本宮。…西海使佐伯連栲繩。闕位階級。小山下難波吉士國勝等。自百濟還獻鸚鵡一隻。」
「(斉明)三年(六五七年)是歳条」「使使於新羅曰。欲將沙門智達。間人連御廐。依網連稚子等。付汝國使令送到大唐。新羅不肯聽送。由是沙門智達等還歸。西海使小華下阿曇連頬垂。小山下津臣傴僂。傴僂。此云倶豆磨。自百濟還獻駱駝一箇。驢二箇。石見國言。白狐見。」
「同年是歳条」「越國守阿部引田臣比羅夫。討肅愼。獻生羆二。羆皮七十枚。沙門智踰造指南車。出雲國言。於北海濱魚死而積。厚三尺許。其大如■。雀喙針鱗。々長數寸。俗曰。雀入於海化而爲魚。名曰雀魚。或本云。至庚申年七月。百濟遣使奏言。大唐。新羅并力伐我。既以義慈王。々后。太子爲虜而去。由是國家以兵士甲卒陣西北畔。繕修城柵斷塞山川之兆。又西海使小花下阿曇連頬垂自百濟還言。百濟伐新羅還時馬自行道於寺金堂。晝夜勿息。唯食草時止。或本云。至庚申年。爲敵所滅之應也。」
以上の記事で判るように「大人数」となることや、「鸚鵡(オウム)」「駱駝(ラクダ)」「驢馬(ロバ)」等珍物が献上されるようになること、さらに「西海使」として「倭国」からも毎年使者が「百済」を訪れているというように両国の関係が明らかに緊密になっていることが推定できます。「通好」するとはこのような一連の交流を示すものと思われ、「質」そのものとは別と考えられるものです。そう考えると、「扶余豊」が「質」として来倭したのは「六四〇年付近」のことと考えて不自然ではないこととなります。
(この項の作成日 2011/07/27、最終更新 2018/01/08)