『常陸国風土記』によれば「我姫」地域に対して「高向臣(大夫)と「中臣幡織田連(大夫)」が「総領」として「坂より東」を支配していたとされますが、彼らはどこに所在していたのでしょう。
後の『延喜式』でも「大国」に分類されているのは「板東」では「武蔵」「総」「常陸」の三つの国であり、遡って「阿毎多利思北孤」の時代でも、このいずれかの国に「惣領」の所在地があったと考えられます。
「筑紫太宰」(惣領)の場合は、現「太宰府」が所在する場所に当時も「太宰」(惣領)はいたものと考えられます。また、「吉備惣領」の場合は「現在」もその所在地が不明ですが、いわゆるその地域の古代からの「中心」とも言えそうな場所に「惣領」がいたものと考えられ、現在の「広島県府中市」付近ではないかと考えられています。このような場所は、それ以降「国府」が置かれたため、いまでも「府中」という名が残っている場合が多いと考えられます。
関東(坂東)の場合「古代」からの代表的な場所、というのは「武蔵」か「常陸」ではないかと考えられます。「武蔵」は「倭の五王」の時代にも、服従させられることなく、独立地域であったことが推察され、ここに「関東王権」の「都」というべきものがあったと考えられています。逆に言うと「武蔵」は独立性が強く、この時期以前には「倭国」の支配に「明確」に入っていたかどうかははっきりしません。
それに比べ「常陸」は「九州」と文化的に近く、「直轄地」であった可能性が強いと考えられます。(「装飾古墳」や「五弦の琴」などの存在)
また、「常陸」ではその後「天智天皇」が「六七〇年」に施行したといわれる「庚午年籍」も、実は作られておらず、その翌年の「辛未年籍」が作られていた経緯があります。(庚午から作り始め翌年の辛己で作り終えたとされるが、それでは他の地域ではなぜそうでなかったのかが不審となるでしょう。
これらのことから「九州倭国中央」に(政治的に)近いのは「常陸」であり、「惣領」も「常陸」にいたのではないか、と考えられます。
つまり、「高向臣」と「中臣幡織田連」の二人は「常陸」から「関東」全体の支配・統治行為を行っていたものと考えられるわけであり、この事を示すように後の「中臣鎌足」の伝承の中には、その出自が「常陸」であるというものがあるのです。
「私見」では『常陸国風土記』の冒頭記事が、「阿毎多利思北孤」とそれに続く「利歌彌多仏利」の王朝当時の「クニ制」が「評制」に転換しつつある状況を示すものと推定しているわけですが、その時点で「惣領」の存在が記されているわけですから、この時点で彼等が「評制」の誕生に重要な役割を持っていたと推定されます。
また、その「評制」施行の目的である「軍事態勢」の強化のために構築されたのが「古代官道」と呼ばれるものであったものであり、「古代官道」の整備と「惣領」設置とは深く関係していると推察されます。それを示すように「惣領」が配置されたと『書紀』及び『続日本紀』に出てくる「筑紫」「吉備」「周防」「伊予」は「最重要路線」である「山陽道」及び「南海道」の要所であり、「筑紫」と「副都難波」の間の最重要路線(地域)に対して、統治強化の一環として設置・任命されたものと推量します。
また「利歌彌多仏利」以来の「我姫」には「東海道」の末端として「常陸」に「国守」が設置されたという記事があります。
「(文武)四年(七〇〇年)冬十月己未条」「以直大壹石上朝臣麻呂。爲筑紫総領。直廣參小野朝臣毛野爲大貳。直廣參波多朝臣牟後閇爲周防総領。直廣參上毛野朝臣小足爲吉備総領。直廣參百濟王遠寶爲常陸守。」
こでは「筑紫」「周防」「吉備」に「総領」が配置されていますが、「常陸」には「総領」ではなく、「国守」が任命されています。それは「常陸」の地を含む「我姫」には総括者として既に「総領」がいたためであり、その内部の各個別の「国」(広域行政体)の首長を任命するという段階にすでに進んでいたものと思われます。
また『書紀』で「惣領」(総令)が出てくるものに以下の記事があります。
「儲用鐵一万斤送於周芳總令所。
是日筑紫大宰請儲用物?一百匹 絲一百斤 布三百端 庸布四百常 鐵一万斤 箭竹二千連 送下於筑紫。」「(天武)十四年(六八五年)十一月 癸卯朔甲辰条」
ここでは「周防惣令(惣領)」に対して「鐵一萬斤」が送られています。(同じ日に「筑紫」にも同様に送られています)これらの記事は「年次移動」の対象と考えられ、実際には「七世紀初め」の時点の記事である可能性が高いと思料します。すると、その段階で「周防」には「総領」が存在している事となります。
また、「伊予惣領」記事も移動の対象と考えられます。
「詔伊豫總領田中朝臣法麿等曰。讃吉國御城郡所獲白燕。宜放養焉。」「六八九年」三年秋八月辛巳朔辛丑条」
また、「吉備総領」については以下の『備前国風土記』の記事が参考になると思われます。
「広山里旧名握村 土中上 所以名都可者 石竜比売命立於泉里波多為社而射之 到此処 箭尽入地 唯出握許 故号都可村 以後 石川王為総領之時 改為広山里…」『備前国風土記』「揖保郡」の条。
ここでは「石川王」が「総領」として登場しますが、彼は「難波王」の子供とされ、その「難波王」が「六世紀終わり」の時代を生きた人物と推定されていますから、「石川王」についてもせいぜい「七世紀前半」程度の時代が活躍した時期と推定できます。その意味では『書紀』に記された「吉備大宰石川王」の死去した年次とされる「天武八年」も一般に考えられている「六七九年」ではなく、「干支一巡」遡上した「六一九年」であったという可能性が高いと思料します。
このように「石川王」が吉備総領として「広山里」へ変更したというわけですが、これは単純な「名称変更」ではなく「村」から「里」への変更が成されているようです。つまりこれは明らかな「制度変更」(それは境界変更も含む可能性があります)であると考えられます。
ところで、『播磨国風土記』を見ると「餝磨郡小川里条」や「餝磨郡少宅里条」等に「庚寅年」に「里名」が変更されたという記事があります。こちらは「里」から「里」への変更であり、「備前国風土記」とは意味合いが異なりますが、こちらは単純な名称変更ではなく実態としては「五十戸」から「里」への変更を示すものと考えられるでしょう。
この「庚寅年」というのは「三野国」木簡の解析からの判断として、「五十戸」から「里」変更が行われた年とされますが、これも「干支一巡」遡上した「六三〇年」のことと考えるべきです。
しかし、この年次で制度改定があったとすると、「吉備大宰」であったとされる「石川王」の死去年次である「六一九年」以前に「播磨」において「五十戸制」から「里制」へ変更されたとは非常に考えにくいこととなります。
このことから、この『播磨風土記』の記事は「五十戸制」以前の「八十戸制」段階での「村」であったものが「五十戸制」を経ずに「里制」へ移行した記事ではないかと推察されることとなり、「吉備」では「五十戸制」が施行されなかったのではないかと考えられることとなります。それは「評」が記された「吉備」関連の木簡群の中に「五十戸」木簡が見られず、「里」木簡しか見られないことからも推察できることです。
現時点では理由は不明ですが、「吉備」では「五十戸制」が施行されず、いきなり「里制」へ移行したものであり、それも他の地域に先行して移行したと考えられることとなります。(五十戸制が布かれていないのはその時点でそれを受け入れなかったことが考えられ、当時の吉備地方王権が倭国王権に対して拒否の姿勢を持っていたことを示すものではないでしょうか。他地域に先行して里制が施行されるのも特にこの吉備が重要地域であったからであり、「改新の詔」と一連の詔の中で「吉備姫王」の持つ「貸稲」の権利を返上させていることと関係していると思われますが詳細は不明です。)
これらの例から考えて「総領」(惣領)は「我姫」の例も含めて全て「利歌彌多仏利」朝の設置ないし任命と考えられ、「遣隋使」による隋制下にあった「州」に設置された「総管」を模したものではないかと思われます、 それはこの「総管」が基本的に複数の将軍を束ねる立場の職掌であり、軍事面での存在意義が強かったと思料されますから、「惣領」においても「評制」施行などと同様「軍事的意義」がそこに込められていると考えられます。ただし「総管」が全ての州にいなかったように「総領」も軍事的意義の大きい地域に対して配置されていたものと見られ、選択的な配置であったと推量されます。(「総管」が「道」に対して設置されることを考えると「倭国」においても同様であったことが考えられ、各地域へとそこへの官道から命名されるものという意義があったものとみられる)
「周防総令」の例は上でも見たように「大量」の「鐵」の支給を受けており、これは同時に「筑紫」に送られた「布生地」などと同様軍事目的であったと考えられ、それは「周防総令」の存在意義そのものに直結するものであることを強く示唆するものです。
(この項の作成日 2011/07/06、最終更新 2015/07/06)