(以下は増田修氏の研究(※)に準拠します)
「舞」等に欠かすことのできないものに「伴奏」があり、「楽器」があります。古代の「楽器」で著名なものは「琴」や「笛」ですが、倭国の「琴」としては古墳その他に出土する「琴」と思われる遺物及び「琴」を演奏している状態を示していると考えられる「埴輪」などがありますが、その研究によれば、地域により「弦」の数に違いがあるのが確認されています。
それによれば西日本に出現する「五弦」型と関東地域の「四弦」型とが確認できるとされます。ただし関東からは「四弦」型の他に「五弦」の「西日本型」も埴輪として出現しています。また「常陸」の国の領域からは「五弦」型しか出土していないという地域的特徴があります。
ところで正倉院に「六弦」の琴が「御物」、つまり「天皇」に直接関わるものとして保存されており、これは現代の「琴」につながるものとされます。このタイプの「六弦」の「琴」は関東の「四弦」と同じ音階と推察され、(一~四弦までは「四絃琴」と同音階で調弦されており、第五絃と第六弦は各々三弦と四弦に対して倍音設定されています。つまりオクターブ高い音で二音ダブっているのです。)このことから関東の「四弦」の改変型であるようです。またこのタイプの「琴」の別名が「あづまごと」というのも示唆的です。
これに関しては『今昔物語集』にある「大江匡衡」に関するエピソードが興味を引かれます。
彼は「十世紀」から「十一世紀」にかけて活動した人物ですが、説話の中には「宮廷」の女官から「和琴」を演奏するよう仕向けられたものの、次のような「和歌」を作ってその場をやり過ごしたことが書かれています。
(今昔物語集巻二十四第五十二話「大江匡衡、和琴を和歌に讀む語」より)
「あふさか(逢坂)の關のあなたもまだみねばあづまのこともしられざりけり」
つまり、「あづま」の「こと」(「事」と「琴」を掛けている)は知らないので「和琴」など演奏できません、というわけです。この事は「和琴」が「あづま」のものであること、「匡衡」のような宮廷人といえどもそのことの詳細については無知であること、宮廷の女官達ぐらいにしか知られていなかったことなどがわかります。
このように「あづま」(関東)特有の「四弦琴」と「宮廷」の「六弦琴」の関係からみて「関東」の権力者と新日本国王権の関係がかなり濃密であった過去があったことを推定させますが、「平安時代」になるとその関係が関係はかなり希薄化していたことが知られます。そのような契機となったものは「藤原」四兄弟の天然痘による死去ではなかったでしょうか。これ以降「藤原氏」の影響は以前よりかなり小さくなったと見られるわけですが、彼等の祖である「鎌足」(中臣鎌子)はその出身が「常陸」という説もあり、その意味で新日本王権は関東の権力者がその主体あるいはその頂点にいたことを推定させるわけです。(当然それは「平安時代」をかなり遡上する時代の関係として考えるべき問題でしょう。)
また『雄略紀』に「呉」の人が「渡来」した記事がありますが、彼は「呉琴」の奏者の祖とされていますから、彼により「呉琴」が持ち込まれたものと思われますが、この「呉琴」とは「帝舜」が奏したという「五弦琴」を指すと思われ、これは当時の中国でも「北朝」というより「南朝」の領域で多く弾かれていたものです。
「(雄略)十一年…秋七月。有從百濟國逃化來者。自稱名曰貴信。又稱。貴信呉國人也。磐余呉琴彈■手屋形麻呂等。是其後也。」
「五弦琴」はそれ以前からもあったと思われるものの、中国のものとは弦の張り方(並行なのか放射状なのか)など細かい点で違いがあり、この時点以降倭国独自のものから中国式へ主流が変ったということが考えられるでしょう。
また、『隋書俀国伝』にも「五弦の琴と笛がある」と書かれていることが思い起こされます。(ただし、この「五弦」という表現を「琵琶」のことと理解する向きもありますが、その場合の「琴」の弦数は当時の「隋」と同じ「七弦」であると言うことになりますが、日本では「七弦」の「琴」が遺物としては全く残っていないことや、「沖の島」に「八世紀」頃廃棄されたと考えられている琴が「五弦」であることと矛盾することとなると思われます。『隋書』の中では「琵琶」と「五弦」及び「琴」は正確に書き分けられていることを考えると、これを「琵琶」と見ることは出来ないものと思われます。)
つまりここでは「五弦の琴」という「古典的」なものを発見して特に表記したものと理解すべきでしょう。
「中国」では「七弦琴」が長く使用され、「隋」以前の「六朝時代」やそれ以前も「七弦」であったと考えられています。その「調弦法」は「四弦」と「六弦」の場合と同様「二弦」がオクターブ離れて調弦されるものが一般的であり、(曲により「調」が違う場合があり、その場合は「調弦」が違う)「西日本」の「五弦琴」と中国の「七弦琴」とが「同源」であるという可能性が考えられるものの、一般には「五弦琴」は「帝舜」が弾じたという記述があり、周王朝時代以前の古式であるという可能性が考えられます。それを「列島」では早期に受容した後改変せずそのまま保存していたということが考えられますが、そのことは中国から「七弦琴」が渡来するチャンスがなかったらしいこともまた推察されます。
周王朝に捧げられた「舞」も「琴」も元々「王」の独占するところであり、祭祀等のセレモニーには不可欠であったと思われ、後代の『隋書俀国伝』にも「其王朝會、必陳設儀仗、奏其國樂」と書かれており、「朝會」つまり「朝廷」が開かれるたびに必ず「儀仗」つまり「儀式」のための「武器」「武具」を飾り、またそれを身につけた人員を配置し、なおかつ、「国楽」を「奏する」とされています。
このように「王」の「統治」と「楽」を奏するという行為は不可分のものであり、「弦」の数の違いは「音階」「調律」の違いとなり、それは即座に「奏」される「曲目」の違いとなりますが、その曲目は「国楽」と呼称され、「国家」を象徴するものであったわけですから、その違いは「国家」(国)の違いとならざるを得ません。つまり、「弦数」の違いは「統治領域」の違いでもあるわけです。(埴輪として「琴」が出土しているのも、「古墳」の主である「王」に奉仕するという性格を良く表していると思われます。)
「弥生時代」から「古墳時代」という「祭政一致」の時代の中では、それは主権(王権)の異なる政治領域が複数あった事を示すこととなり、「西日本」及び「関東」という二大「政治領域」の存在が浮かび上がってきます。
埼玉稲荷山古墳から出土した鉄剣には「金象眼」が施され、通常の理解では近畿の王権に服属していたと考えられる文章が書かれていますが、実際には「四弦」の琴が遺物として共に出ています。このことはこの人物が「五弦領域」とは違う政治領域にいたことを示しており、通常行われている鉄剣銘文の読解は大いに問題とすべきものです。
(※)増田修「古代の琴(こと)~正倉院の和琴(わごん)への飛躍」市民の古代第11集1989年 市民の古代研究会編による
(この項の作成日 2010/04/10、最終更新 2019/12/15)